HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報651号(2024年1月 9日)

教養学部報

第651号 外部公開

「快哉」の歓喜と共に ――第74回駒場祭開催に思うこと

石井 剛

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  二〇二三年十一月二十四日から二十六日にかけて、この時期毎年恒例の駒場祭が開催された。まず明らかにしておきたいのは、第74回目となる今回について、「毎年恒例の」という修飾語が附されることには特別な意味があるということだ。何しろ、二〇二〇年度以降の過去3回は新型コロナウィルス感染症(COVID‐19)の流行に阻まれて、二〇二〇年度(第71回)と二〇二一年度(第72回)はオンライン形式での開催となり、二〇二二年度(第73回)はキャンパスでの実施が再開したものの入構制限を伴うオンライン・ハイブリッド型の開催であった。試みに完全オンラインだった2回のウェブサイトを訪れてみるとよい。特に二〇二〇年度前半のキャンパス・ロックダウンを経験した身には、あのころの暗い雰囲気が思い出されて心が痛くなるし、そうした中でも新しい開催形態を模索した駒場祭委員会メンバーや企画参加諸団体の苦労の大きさと熱意の強さが行間から滲み出てくるのを感じるだろう。非常事態なので中止するという選択肢もあったにちがいないし、その方が容易だったかもしれないが、そうしなかったことはすばらしい決断であったし、そのおかげで、今回ついに「毎年恒例」のお祭りがもどってきたのだ。駒場祭公式テーマソングというのがあるらしく、「快哉」というそのタイトルは、三年を経たあとの喜びをストレートに表現しているとわたしには思える(単なる過剰解釈にすぎないかもしれないが)。

 いわゆる「コロナ前」には十万人(一説には十二万人)を超える来場者があったとも言われるが、今回は三日間で約八万二千人が訪れたという(駒場祭委員会調べ)。開催日をねらうかのように襲ってきた寒波に加え日曜日には小雨交じりの天気だったので、よく健闘した数字であると言うべきだろう。昨今では、世相の変化でかつては起こりにくかった安全上のわずらいが急速にプレッシャーを高めているので、見守る側のわたしたち教職員としては、この規模でも概ねつつがなく三日間を終えられたことにホッと胸をなで下ろすばかりだ。もちろん、駒場祭委員会の学生諸君のがんばりがあったこと、そして委員会の統率のもと、企画諸団体の参加者たちがそれぞれの持ち場で責任を担って企画を遂行したことに、その功はまず帰せられるべきだろう。だが、そればかりではないことも改めて確認しておきたい。
 例えば、大音響を伴う巨大なお祭り騒ぎが三日も続いたにもかかわらず、この若いエネルギーを温かく受けとめて静かに見守ってくださった近隣住民の方々。また、急行を駒場東大前駅に止めるという計らいに加え、渋谷駅で駒場祭に向かうと覚しき人の波を巧みに誘導してくださった京王電鉄。さらには、警察も万が一の不測の事態に備えてくれた。わたしたちが日ごろ駒場という地を得て学問生活を営むことができているのは、市民の皆さまからこうして理解を得ることができているからなのだ。キャンパス生活を楽しむわたしたちはそのことを忘れてはいけない。それは一高の「籠城主義」的ナルシシズムに対する反省と共に始められた駒場祭の初衷に応えようとすることでもある。

 ところで、「毎年恒例」が復活したことは、これまで繰り返されてきた駒場祭の意義に対する省察が再びよみがえることを同時に意味している。今回の開催において最も焦点となった措置は飲食物提供企画の出店制限撤廃であった。感染症対策に注力した昨年は飲食物提供企画の数量を制限し、飲食可能エリアを設置して回遊しながらの飲食を厳しく制限した。今回はこうした制限を完全に撤廃することが準備の最初から謳われていた。果たして各建物をつなぐ通路は飲食物提供企画が軒を連ね、学生たちは調理と販売に興じていた。わたしは彼らが醸し出す喧騒の復活をまずは喜ぶが、同時にそこに一九七〇年代以降レジャーランド化したと言われる大学の姿がそのまま反復されていることに不安を覚える。過去三年、キャンパスでは研究、教育、行政、学生の課外活動などすべての営みが制限された。キャンパス文化は自ずと衰退せざるを得ない。その中では絶望が垣間見える瞬間もあったろう。魯迅がハンガリー詩人ペティーフィのことばを借りて「絶望の虚妄なること希望に同じい」と言ったことは中国語履修者(東大でもポピュラーな第二外国語だ)には常識として知っておいてもらいたい逸話だが、希望があるとしたらそれは絶望と表裏をなしているはずであり、絶望の中からしか希望は生まれてこない。「毎年恒例」が復活することで絶望は消え去ったのだとしたら、そこに顔をもたげるのはきっと乾いた虚無にほかならないだろう。 わたしたちはこの三年間にいったい何を学んだのだろうか。「快哉」の歓喜にいったい何を託すのだろうか。学生諸君と共にこう問うていくことができるなら、「教養」の名を冠するこのキャンパスに暮らす一人としてそれに勝る悦びはない。
 学生委員長が「毎年恒例」で執筆する本記事もドライに書き上げていいのだろうが、わたしの固有名が刻まれる以上、敢えて踏み込んでみた次第である。

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(学生委員会委員長/地域文化研究/中国語)

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