HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報651号(2024年1月 9日)

教養学部報

第651号 外部公開

<駒場をあとに> 日暮れて道遠し

竹村文彦

image651-2-1.jpg 私の研究室は、18号館八階の南向きの部屋だ。眺望・日当たりともに申し分なく、これがもしマンションであったならば、かなり値が張るポジションだろう。二十年近く前に、9号館一階の地下室のような部屋から現在の研究室に移ってきたとき、「都心の一等地にこんな立派な研究室を与えられたからには、それに見合うだけの立派な研究をしなければ罰が当たる」と意気込んだものだ。その思いは、ついに意気込みだけで終わってしまったけれど......。窓から外を眺めると、駒場キャンパスは一面に巨大な樹木で覆われていて、森を目の前にしているようだ。これを書いているのは秋も深まった時期なので、緑の葉を茂らせた中に黄緑や黄色、茶色やえんじ色の樹冠も混ざり、複雑な色合いが美しい。先日、思い立ってこれらの木々の名前を確かめたところ、クスノキ、ヒマラヤスギ、ケヤキ、シラカシ、サワラ、クロマツ、カナメモチ、と実に多彩で驚いた。1号館の時計台は、この森のまん中に頭を覗かせている。ちょうど目の前にあるので、研究室に取り付けられた時計のようで便利だった。

 今日はたまたま曇り空だけれど、こんな日の方がかえって風景はしっとりと落ち着き、建物も木々も本来の輪郭や色合いを見せてくれるように思う。そういえば、二十世紀のペルーの作家フリオ・ラモン・リベイロにこんな文章があった。「光は事物全般を見るのに最適な手段なのではなく、ある種の事物を見るのに最適な手段なのだ。空が曇っている今、私はバルコニーから日差しの強い日よりも多くの細部を風景の中に見て取った。晴天の日は、特定の物を際立たせて他の物を黙殺し、陰の中に置き去りにする。曇った日の穏やかな光は、あらゆる物を同じ平面上に置いて、忘れられた物を暗がりから救い出す。かくしてある種の凡庸な知性は、輝かしい知性よりも一層正確に、一層多くのニュアンスをもって世界を見る。輝かしい知性は、本質的なものしか見ないのだ」。前期課程の学生ともスペイン語の原文で何度も読んだ、私のお気に入りの文章だ。

 今度は振り返って、研究室の中を見回す。両側の壁の本棚には、まだぎっしり本が詰まっている。これらの本も、あと数カ月のうちには整理しなければならない。長いこと私の研究を支えてくれた本たちだから手放すのはつらいけれど、狭い自宅にもはや収納スペースはない。一部は何人かの友人の研究者に引き取ってもらったが、最終的には古本屋の手を借りるしか整理の手段はなさそうだ。

 駒場に採用されて以来三十四年、おおむね平穏で幸せな教員生活を送ることができた。しかし私がのほほんとしていられたのは、他の多くの教職員の方々が〈駒場号〉の安全な運航のために波風に身をさらし、日夜必死で努力されていたからに他ならない。私は学内行政で責任のある役職に就くことがほとんどなかった。それは駒場と私の双方にとって幸いなことではあったが、その分他の人にしわ寄せが行き、負担を押しつける結果になったのは否定できない。こんな私の存在を長年にわたり耐え忍んでくださった皆さんに、心から感謝したい。

 着任当初は私もまだ若く、前期課程の学生諸君からもコンパに誘われたり、彼らが卒業したときのパーティーに呼ばれたりした。だから、その頃の学生たちは印象深く、中には名前と顔をぼんやり思い出せる人もいる。私のスペイン語の授業は、授業評価アンケートの結果もあまり芳しくなく、自由記述欄に「可もなし不可もなし」と書かれたこともあった。恐らくこのあたりが、正当な評価なのだと思う。最近は通りがかりに教室を覗くと、ほとんどの先生がスクリーンに何やら映し出して授業を進めている。パワーポイントなどで分かりやすい教材を作成し、学生に提示するのが当たり前になっているのだろう。私は結局、そうした技術も使いこなせずにしまった。

 後期課程や大学院の授業では、専門であるスペイン・ラテンアメリカ文学を講ずることができ、大変ありがたかった。授業をすることが、自分の専門研究を深め、幅を広げることに直結したからだ。優秀で熱意のある学生たちと文学テクストの解釈をあれこれ検討するのは楽しく、私の思考力は鍛えられ、スペイン語の読解力は向上した。ひとりではなかなか読み切れない長大で難解な文学作品は、意識的に大学院の演習の授業で取り上げ、院生たちを巻き込んで読破するよう心がけた。こうした読書の体験は、私のかけがえのない知的財産をなしている。

 ・・・・・・心に移りゆくよしなし事を綴るうちに、いつの間にか窓の外は暗くなっている。日暮れ、塗遠し(日暮れて道遠し)─今の私の状況を端的に表す言葉だ。高校生の頃、『徒然草』の第一一二段でこの言葉を知った。この段を改めて読み直すと、兼好法師は「吾が生既に蹉跎たり」(私の人生はもうつまずいて先に進めない)と言いながらも、行く道が遠いことに決して絶望してはいない。「諸縁を放下」し、「信をも守ら」ず、「礼儀をも思は」ず、一つ事に専心する決意を続けて表明しているのだ。私には兼好法師ほどの決意はないけれど、これまで道草を食いながら牛の歩みで進んできた道を、定年後は少しペースを上げてできるところまで歩き続けたい。退職のさいにどなたかも仰ったように、大学教員に定年はあっても、研究者に定年などないのだから。

(地域文化研究/スペイン語)

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