HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報651号(2024年1月 9日)

教養学部報

第651号 外部公開

<本の棚>『絵画の解放 ――カラーフィールド絵画と20世紀アメリカ文化』における二重の解放

松井裕美

 image651-2-3.png「なんだか『フランスっぽい』な。でも良いな」
 カラーフィールド絵画の芸術家であるジュールズ・オリツキーの作品を、一九五八年に初めて見たモダニズムの批評家グリーンバーグが口にしたとされる言葉だ。一九五〇年代のアメリカに登場したカラーフィールド絵画の展開と受容をさまざまな角度から検証する本書は、グリーンバーグやフリードのみならず、同時代の多くの美術批評や芸術家たちの言説を幅広く取り上げている。冒頭の言葉は広範におよぶ本書の検討対象のほんの一隅に置かれたものでしかないが、それでも、この本全体で問題とされる「解放」の意味を象徴しているように思われた。

 カラーフィールド絵画とは何からの解放だったのか。この問いに対する答えはすでにさまざまな次元で用意されてきた。それは具象絵画からの解放であり、ヨーロッパのモダン絵画(「フランスっぽさ」)からの解放であり、戦後のアメリカに登場したポロックらによる抽象表現主義絵画からの解放だった。グリーンバーグがオリツキーらの絵画を評価したのも、「脱実体化」された「純粋に視覚的」な色の領野(カラー・フィールド)を追求するその姿勢が、絵画を新たな解放へと向かわせるものだったからだ。

 だが冒頭の言葉は、むしろ絵の具の物質性(触覚性)を感じさせるオリツキーの厚塗りの絵画に対して発せられた言葉なのだという。そこにグリーンバーグが認めた「フランスっぽさ」とは、フランスの抽象表現運動アンフォルメルを代表するフォートリエを連想したからではないかと、加治屋氏は指摘する(29頁)。
 オリツキーがカラー・フィールド絵画を制作し始めるのは、その後のことだ。だがカラー・フィールド絵画に取り組む前のオリツキーの「フランスっぽい」表現に、グリーンバーグがそれでも「良いな」と感じた点を取り上げることにこそ、本書の着眼点の新しさの一つがある。グリーンバーグはこれまで、形式的な分析を推し進め純粋な視覚性を評価したモダニズムの批評家として理解されてきた。その純粋主義的な側面は、混成的なものの排除に向かうような一つの限界として、批判の対象ともされてきた。だが本書で明らかにされるのは、そうした従来のモダニズム理解には限定されないさまざまな評価軸が、モダニズムの批評家に存在したという点である。グリーンバーグが、過去の自らの批評を別の紙面に再掲載するにあたって記述を修正し、作品評価を一変させるという興味深い現象も、本書では報告されている。

 緻密な分析は、グリーンバーグだけでなく、彼のモダニズム批評を受け継いだ批評家たちや芸術家たちの著述にもおよぶ。触覚や物質性に注目し、フランケンサーラーのポロック解釈に影響され、自室の「壁を絵画で装飾するグリーンバーグ。展示環境に言及し、時間の中の絵画経験を記述し、時にはグリーンバーグとのやり取りの中で自らの議論の方向性を変えてしまうフリード。そうした諸側面を取り上げながら、加治屋氏は、モダニズム批評そのものが決して一枚岩ではなかったことを明らかにする。
 また本書は、モダニズム以外の論じ手たちによるカラー・フィールド絵画についての批評も取り上げることで、カラー・フィールド絵画が与える鑑賞体験の多様性を強調する。抽象のうちに私たちは、純粋に形式だけを楽しむ視覚的な体験だけでなく、具象的な何か、心理的な何かをも感じることができる。そのことを、当時の批評言説を拾い上げながら、本書は明らかにしている。
 そう、カラー・フィールド絵画そのものも、決して純粋に形式的なものとしては語れないのだ。そこには、実践の部分でも理論の部分でも、純粋な視覚性や絵画の自律性という観念を超えるような、さまざまな側面があった。本書の第4章で論じられるデザインの分野への展開と、相互的な関係性(「協働的な関係性」として語られる)は、そうした側面の最たるものである。

 ここであらためて、本書で問題とされる解放が何なのかという、前述の問いに戻ろう。一つにはすでに述べたように、過去の絵画からの解放という、繰り返し語られてきたモダニズム的な物語のシナリオがある。だが他方では、そうした固定的なシナリオとしてしか認識されない傾向にあるモダニズム観から、「モダニズム」の只中で生まれたカラー・フィールド絵画とそれを取り巻く言説を解放するということが、本書の狙いである。したがって、本書で解放の対象となるのは、絵画だけではない。本書の読後に解放されるのは、モダニズム絵画を見る私たちの認識であり、またモダニズム絵画について紡がれてきた過去の言葉を読む私たちの姿勢でもあるのだ。

(超域文化科学/フランス語・イタリア語)

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