HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報651号(2024年1月 9日)

教養学部報

第651号 外部公開

<駒場をあとに> 駒場寮廃寮後の空間に想う

中西 徹

image651-3-1.jpg 冷戦末期、博士論文を執筆していた頃のことだと思う。赤門前にあった立て看が記憶にある。それは、「産官学複合体」を批判したものであり、大学の自治の変質と企業における「所有と経営の分離」の如き変動が大学にも進行しつつあった状況を的確に表現していたように思えた。しかし、時を経て私が本郷の経済学部から異動した二〇〇〇年当時、駒場は良い意味で異世界だった。かつての「大学」の香りが残っていたからである。
 そのような中で異動した私の任務は学生委員会・委員長ということになった。ミッションは、「駒場寮」廃寮後の諸問題の解決である。「当たりクジ」だった。専用携帯を渡され、土日を含め、いつ鳴るかもわからぬネッケの「クシコスの郵便馬車」のけたたましい着信音に怯える日々が続く。交渉の場では、元寮生の学生に怒鳴られながら、彼らと文字通りの「押し競饅頭」もした。正門前立て看に自分の名前が踊っていたときは思わず顔を背けた。彼らとともに「温泉宿に泊まり話し合う」という意味不明な「交渉合宿」の夢をみて夜中に飛び起きたこともある。カルチャーショックの連続だった。お世話になった事務職員の方に、「私も本郷にいたけれども、とても同じ大学とは思えないですよね」と言われ、返す言葉がなかった。
 とはいえ相手は本学学生である。遅刻することもなければ、話合い中に居眠りすることもない。「交渉」の場では、彼らは常に真摯な態度の模範生であった。こちらも誠意を尽くさねばという気持ちになるのは当然であろう。最後の交渉の場だった。元寮生の一人に「本当にもう任期は終わりなのですか」と尋ねられた時に一抹の寂しさを感じたのは嘘ではない。その後も、学内ですれ違えば必ずお互い挨拶をしたし、別の元寮生は院修了時、丁寧に挨拶にやってきてくれた。そのようなとき想い出したのが学生時代に愛読した原口統三の『二十歳のエチュード』の断片だった。正直に言えば、その一読者が元寮生に引導を渡す立場になったことは、たしかに悲しい巡り合わせだった。

 駒場は教育・行政の負担が大きいと散々聞かされていた。しかし、既に廃寮後のことだ。そして結局は教員と学部学生との関係である。それまでの先生方の多大なご尽力があってこそだが、問題がこじれることはなかった。その後、行政面では、前期・後期の学部改革やその後は教員評価制度の立ち上げなどの仕事で、やや神経をすり減らしたこともあったが、基本的には学部内の問題である。現在の先生方の業務と比べて煩雑さも重圧もなかったであろう。
 もっとも、私は、柔軟性に乏しく、大学の急激な変化について行くことはできなかった。使いものにならず、同僚の先生方には大変な迷惑をかけてきた。心からお詫びしたい。能力のなさに尽きるが、とくに専門であるはずの社会科学出自のカタカナ術語を大学の仕事に変換することが困難だった。アカウンタビリティ、ガバナンス、コンプライアンス......、重要であることはわかるが、従来の制度の中でも可能なのではないかとまずは思案してしまい、そこから先は一歩も進めなかった。
 駒場東大前駅ホームから見える学習塾宣伝板に「東大秋入学対応」と、はっきり書かれていた日を私は忘れない。このドタバタの顛末で立ち止まることの重要性をいやというほど思い知らされた。そこに駒場にアドバンテージがあるのかもしれない。愚考するに、駒場には学部としての規模が大きいという正当な理由があって、制度変化とその諸影響の分析には相応の時間を要するからだ。

 さて、時は流れ、最後の担務の一つもまた学生委員である。結語として学生諸氏に一言述べておくことは不自然ではないであろう。住民と半生を共に過ごし、同時に学びの場となった私の調査地は、ゴミ捨て場の上にできたマニラの貧困地区である。調査を始めた一九八五年当時は極貧のどん底にあり、周囲から酷い差別を受けていたが、最近は、本学客員准教授として昨年度にお迎えしたフィリピン大学(日本では東京大学にあたる大学)のアルバレス先生や、小学生時から廃品回収人として電気の無い家の家計を支えていた少女がフィリピン大学を卒業し、さらに名門デ・ラサール医学大学院を経て医師となるという例も出てきた。だが、フィリピンでは奨学金制度が整っていない。成績優秀な彼らでさえも、欧米や日本からの援助がなければ、大学を卒業することさえできなかった。過去には、合格の太鼓判を押されながら、通学費が払えないという理由でフィリピン大学受験をあきらめた人も少なくない。この地区から初めて村議となり、コミュニティ活動の要として活躍した女性もその一人である。

 みなさんには、様々な社会的条件から、能力を発揮できずにいる人々がいることを常に理解しようと心がけてほしい。そして、他者の境遇を理解しようとする想像力の発揮を忘れないでほしい。いまやノブレス・オブリージュという言葉は適切ではないかもしれないが、社会を支える責任ある立場の人々の責務だと思うからだ。妄言多謝。

(国際社会科学/経済・統計)

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