HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報651号(2024年1月 9日)

教養学部報

第651号 外部公開

<本の棚> 藤崎 衛著 『ローマ教皇は、なぜ特別な存在なのか カノッサの屈辱』

田中 創

image651-4.png 「教養・文化シリーズ 世界史のリテラシー」。本書を手にとってまず目についたのが、この叢書名である。自らの勤め先にも含まれる語でありながら、未だに「教養」という文字を目にすると、その高尚すぎる響きにどうにも身構えてしまい、落ち着かない気持ちになる。それに加えて、「リテラシー」という、これまた厄介なカタカナ語が続いている。しかも「世界史の」。これだけでも恐ろしい数々の単語の後に目に入ってくるのが、「カノッサの屈辱」である。可愛らしい色合いの装丁にも関わらず、何と物々しい書籍であろうか。

 しかし、この壮絶な第一印象を乗り越えて、本書を手に取って読めば、その不安はみるみるうちに溶けていく。それほどに著者の語り掛ける言葉は優しく、読み手に心の落ち着きを与えてくれる。最初に「カノッサの屈辱」という同名の深夜番組に言及するほどの心遣いである。これならついていけそうだ。そして、第一章では、記憶もおぼろげな「カノッサの屈辱」という歴史的事件について、登場人物たちやその歴史的背景が丁寧に解説されていく。「叙任権闘争」「神聖ローマ帝国」といった分かったようで何も分かった気にならない歴史用語の背景が説明されていくにつれ、「なぜハインリヒ四世は教皇グレゴリウス七世に屈したのか」という謎解きが進んでいく知的快感を味わえるだろう。

 しかし、本書はこの事件の説明だけにはとどまらない。「カノッサの屈辱」という単語が本書の副題に過ぎなかったこと(そういえばフォントが小さかった!)が思い起こされる。第二章では「『ローマ』と『教皇』はいかにして結びついたのか」という新たな問いが投げかけられる。現代のローマ市内を観光するという親しみやすい叙述から入りこそすれ、読者は気がつけば、ローマ帝国下の使徒たちの布教に始まるキリスト教の歴史とローマ教会の発展史という重厚な歴史ツアーに参加している。そして、問いの中の「ローマ」や「教皇」という言葉に鍵括弧が付けられていたことの深い意味を実感することになるだろう。この章を読み終えれば、グレゴリウス七世が拠って立つローマ教会の伝統という歴史の経糸(たていと)が見えてくる。

 第三章は一転して「十字軍」の話題に移る。「いや、それもよく分からない単語だなぁ」という心の弱音はもはやこの段階ではすっかり出なくなっているだろう。もっとも、本章は通史的な十字軍の説明ではない。第一回十字軍よりも二十年以上前に、グレゴリウス七世が十字軍を自ら率いてコンスタンティノープルに向かおうと計画していたという衝撃的な逸話を引き合いにして、十一世紀の西欧世界の人々の信仰や生活実践のありかたを描き出すのが本章の主眼である。未遂に終わったグレゴリウスの十字軍計画と、大成功を収めたウルバヌス二世の第一回十字軍が対比されることで、当時の社会に広く共有されていた価値観、それに対するローマ教皇の主体的関与といった側面が明らかにされる。後代の十字軍も展望した本章を通じて、「カノッサの屈辱」の背景に広がる同時代社会という緯糸(よこいと)が浮かび上がる。

 最後の第四章では、宗教改革に向かうまでの教皇の歴史が素描される。教皇庁という組織の成立、世俗王権との衝突、アヴィニヨンへの教皇庁移転など重要な出来事が紹介される。一見すると「カノッサの屈辱」のときと同じような世俗と教会の対立が述べられるものの、グレゴリウス七世の時期との対比を通じて、その間に起きた、明確な社会の変化が読み取れることを著者は教えてくれる。それは単に国家や教会の行政組織だけでなく、心性の面でも変化が生じたことを浮き彫りにしてくれるだろう。

 ローマ教皇の歴史はともすると歴代教皇の伝記集になりかねない。しかし、本書はそのような個人の歴史ではなく(もっとも、教皇は皇帝を廃位できると宣言してしまうグレゴリウスも相当に魅力的な歴史人物なのだけれど!)、教会の伝統や教皇庁組織、当時の人々の心性などを切り口にして、ローマ教皇を描き出すという手法を取っている。それを通じて読者は、現代のバチカンやイタリア、ドイツまでをも射程に入れた歴史的視野を得られるであろう。叢書名にも納得である。

(地域文化研究/歴史学)

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