HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報651号(2024年1月 9日)

教養学部報

第651号 外部公開

<駒場をあとに> 駒場の森で過ごした22年

和田 元

image651-5-1.jpg 緊張して部屋に入り、どこに座ってよいのかわからず、空いている席に適当に座り周りを見ると、近くの人と話をしている人、中には席を離れて話をしている人もいる。論文の原稿でも書かれているのだろうか、パソコンをいじっている人、本を読んでいる人もいる。定刻になっても状況は変わらず、壇上からは会議報告が始まっているが、真面目に聞いているのは一部であるようにしか見えない。その頃、小中学校では学級崩壊が社会問題となっており、ああここでもか、そう思って驚いたのが、二〇〇二年の四月、駒場の教授会に初めて出席したときのことであった。組織の複雑さ、会議の多さ、担当授業の多さにも驚かされ、私のような者がこのような環境でやって行けるのか、最初の頃はとても不安であった。しかし、住めば都というように、数年経つとそのような環境にも慣れて駒場がすっかり気に入り、あれから二十二年が経過し、ついに定年を迎えようとしている。

 私が駒場を気に入った理由の一つは、駒場の自由な雰囲気であった。教員の一人一人が独立した研究室をもち、お互いを尊重し合いながら自分がやりたい研究を自由にやることが許される環境はすごく居心地がよく、そのような環境で優秀な学生と一緒に過ごすことができたのはこの上無い喜びであった。専門が植物生理学である私は、生体膜の主成分である脂質に注目して、シアノバクテリアや植物などの光合成生物における脂質の生合成や生理機能についての研究を行ってきた。特に力を注いだのは、チラコイド膜に唯一のリン脂質として存在するホスファチジルグリセロール(PG)に関する研究である。チラコイド膜は、光合成生物にとって最も大事な光合成の場であり、しかも細胞の中に最も多量に存在する膜である。この膜は他の生体膜とは異なり、リン脂質ではなく糖脂質が主成分である。このユニークな特徴は、光合成生物にとって貴重なリンを節約するため、進化の過程においてリン脂質が糖脂質に置き換えられてきたためであると考えられている。もし、そうであれば、何故、PGは糖脂質に置き換えられず、未だに使われているのだろうか。もしかすると、PGには特別な機能があるのかもしれない。そう推測し、チラコイド膜のPGに注目した次第である。PGの合成に異常をきたした変異体を作製し、その変異体の性質を詳細に調べることで、PGの機能解析を進めた。そのような解析から、PGが光エネルギー変換に関わっている光合成装置の構築や安定化、光損傷した光合成装置の修復、葉緑体の分化に必須であることなど、他の脂質では担えない特別な機能を持った光合成に必須の脂質であることを突き止めることができた。少しマニアックな研究ではあったが、流行を追わずに独自の視点で研究を進めることで、重要な成果を挙げることができた。

 二番目の理由は、駒場で多様な研究が展開されているという点であった。駒場では、従来の学問分野だけでなく、境界領域や学際領域などの幅広い分野、階層的にもミクロからマクロまで、文系の先生も大勢おられて、実に多様な研究が行われている。そのような環境は刺激的であり、視野を拡げるのにすごく役立ったし、異分野の人との交流は幾つもの気付きや新しいアイデアをもたらしてくれた。私は、駒場の中の先生が書かれた本を通勤電車で読むのが好きだった。ご本人の顔や口調を思い浮かべながら読むと、講義を受けているかのように頭に入ってきて、ついつい夢中になり渋谷まで乗り過ごしてしまったことが何度もあった。そのような読書を通じても色々なことを学ばせてもらった。

 もう一つの理由は、駒場の緑である。厳しい寒さのなか清楚で気品のある花を咲かせる梅、春が来たことを教えてくれるモクレンやジンチョウゲ、その後、桜、花桃、蜜柑、梅雨の時期に巨大な純白の花を咲かせるタイサンボク、初夏のアカメガシワ、真夏のサルスベリとキョウチクトウ、秋のキンモクセイ、冬の椿や山茶花と続く。アカメガシワやキンモクセイは、花だけでなく上品な甘い香りも楽しませてくれた。ビワ、蜜柑、イチョウ、イイギリ、ネズミモチ、マメガキ、アオキの実も美しかった。特に、イイギリの真っ赤な実は、私の一番のお気に入りだった。春のケヤキやイチョウの新緑、秋のイチョウの黄葉やイロハモミジの紅葉も素晴らしかった。駒場の森は、四季折々に姿、形、色を様々に変化させて私を楽しませてくれた。仕事が行き詰まったとき、やることが多くて途方に暮れているとき、そんなときに構内を散歩すると、癒されて、また頑張ろうという気にさせてくれた。この森は駒場の大切な財産として、これからもずっと大切にしてもらいたい。

 最後に、私のような凡人が何とか定年までの二十二年間、この駒場の森(知と緑の森)で研究・教育に携わることができたのは、自由で暖かい雰囲気のもと、聡明な教職員の皆様、研究室の優秀なスタッフや学生達に助けていただいたお陰であると心から感謝を申し上げたい。どうもありがとうございました。定年後は、宮崎の実家(日南市飫肥)に戻り、父の残してくれた山や畑で、これまで行ってきた研究の経験を活かして、植物を相手にフィールドワークを楽しみたいと思っている。

(生命環境科学/生物)

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