HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報651号(2024年1月 9日)

教養学部報

第651号 外部公開

<駒場をあとに> 駒場(コマバ)への感謝

田中 純

image651-6-1.jpg 研究室のある18号館から生協へ向かう裏道沿いに、樹木が点在し、夏になれば草の生い茂る空き地がある。取り立てて用途のない遊休地だ。ぽっかりと空いたその空間の脇を通り過ぎるとき、なんとなくほっとする。そこに私にとっての「駒場」があるように感じる――自分がここで過ごした年月(としつき)ばかりではなく、一高時代、いや、それ以前からの息吹を肌に感じ、その頃の光景を幻に見ることすらできるように。
 何の変哲もないものに思い入れを託してしまう、退職前の感傷だろうか。けれど、「コマバ」と呟いてみるとき、この名の響きはあの場所の印象と同じく、遠い記憶と定かでない未来の予感を同時に呼び覚まし、どこか切ない気持ちになる。それは誰かの面影を手繰り寄せようとするのに似た感情なのかもしれない。何ごとにつけおよそ帰属意識の稀薄だった筈の自分が、駒場(コマバ)にだけはそんな思いを抱いていることに驚く。
 定年よりも一年だけ早く職を退くことにした。偶然の事情がその機会を与えてくれた。理一に入学し、教養学科ドイツ科、地域文化研究専攻へと進学した私にとって、駒場は合わせて四十年近く通った場である。8号館ドイツ科主任室のタイプライターを借りてドイツ語の卒論を打ち、追い込み時には寝袋を持参して住み着くという狼藉が許されていた(?)時代もあった。この間のキャンパスの変化を知っているからこそ、余韻と予感の入り交じった地霊(ゲニウス・ロキ)の幻も見てしまうのかもしれない。

 かつては学生、その後は同僚として接した教員の皆さんからは、専門である芸術・文化論やドイツ研究にとどまらない知的刺激をたくさん頂戴した(もちろん、多くの学生たちからも!)。とくに表象文化論コースに所属したことは宿命的なものだったと思う。「養子」として拾ってもらった(無)意識があり、「表象」という看板を次世代に引き継ぐことに使命感に似たものを――頼まれもしないのに――勝手に感じてきた。表象文化論学会が結成されてからすでに十七年、ようやく最近、肩の荷を下ろした気がしている。

 専攻の役職のほか、総長補佐、指名副研究科長、駒場図書館長、副学長といった学内行政職にも就いたが、東大という巨大機構のなかで、おのれの力不足を痛感させられることが多かった。副学長時代に実現できた UTokyo BiblioPlazaが末永く継続的に発展し、書物という形態を取った知の豊かなデータベース、もうひとつの「図書館」となることを願っている。この場を借り、研究・教育・行政でお世話になった教職員の方々に御礼申し上げたい。とくに駒場の事務部長(のちに副理事)を務められた関谷孝さんの笑顔を懐かしく思い出している。

 ちょっとした素朴な疑問から深入りすることになった二〇二〇年の総長選考問題では、絶望感に陥るぎりぎりのところで、選考会議議長の小宮山宏元総長に宛てた質問状などに名を連ねてくれた教員有志の皆さんのほか、選考プロセス正常化を求めた緊急アピールに賛同する教職員・学生の方々の存在に大変勇気づけられた。われわれ教員有志の質問に対して、その都度、小宮山議長から応答があったこともまた――内容には満足できなかったとはいえ――、無力感のなかの一縷の救いとなった。そこには、秘密主義的な学内政治とは異なる、公の場における言論の対等な交換がかろうじて成立しえていたからである。
 この文章を書いている現在、東京大学をはじめとする五大学にあらたに「運営方針会議」を設置するという、国立大学法人法「改正」案の国会審議が行なわれている。この法案は最悪の場合、政府に直接管轄される組織体へと国立大学をまったく変質させる――自己決定権を奪う――端緒になりかねない。こうした政策が破壊しつつあるのは、日本の大学で培われてきた、ひとつの民主主義的文化であると私は思う。その文化を守らねばならないと感じる。それはきっと、その破壊の対象が自分の生と緊密に結びついているからに違いない。

 「コマバ」とはおそらく私にとってそんな、身体によって生きられる文化(エートス)を象徴する名なのである。「コマバ」を守るために必要なものは何か――二つの言葉を思い出す。ひとつは赤狩りに抵抗した歴史家エルンスト・カントロヴィッチの「人間なるものの原理、人間性(フマニタス)自体が関与しているところでは、私は黙っていることはできない。私は闘うことを選ぶ」という発言であり、もうひとつはアルベール・カミュの『ペスト』で主人公の医師ベルナール・リウーがペストと闘う唯一の方法であると語る「誠実さ」である。駒場(コマバ)的リベラルアーツはその学術的誠実さゆえに「黙っていること」はできず、その誠実さによって「闘うこと」ができるのではないだろうか。

 今後は執筆に専念するつもりだ。残したい仕事(かきもの)への情熱はまだある。栖の書斎から駒場の行く末を見守りたい。そして、「コマバ」はきっといつまでも、私のもとにあり続ける。

(超域文化科学/ドイツ語)

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