HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報652号(2024年2月 1日)

教養学部報

第652号 外部公開

人間の住めない場所 ガザ

鈴木啓之

 二〇一二年に国際連合は『二〇二〇年のガザ:人が住める場所なのか?』と題した英語のレポートを発表した。決して広いとは言えないガザ地区で、二〇〇万人の人口が暮らしていける環境があるのか、というのがレポートの主題だった。

 表題に掲げられた問いへの答えは「ノー」だろう。特に懸念されたのは、電力不足である。二〇二〇年に、電力需要は一日あたり五五〇メガワットに拡大することが見込まれていた。一方で、二〇一一年段階での供給される電力は二四二メガワットに過ぎなかった。うち、ガザ地区の火力発電所が供給できる電力は一〇〇メガワットに留まり、残りの一二〇メガワットがイスラエルから、二二メガワットがエジプトから供給されていた。

 事態の深刻ぶりを示すのは、二〇一一年の電力需要である。この段階で、ガザ地区全域での電力需要は三五〇メガワットだった。つまり、ガザ地区の電力は、そもそも足りていなかったのだ。

 深刻な電力不足は、ガザ地区のインフラを壊していった。病院では度重なる停電と不安定な電圧で医療機器の故障が相次いだ。下水処理場も機能をほとんど停止し、生活排水はため池に集めるか、海に直接放出するしかなかった。九万立方メートルの汚水が海に直接放出され、深刻な海洋汚染を引き起こしていた。また地下の帯水層の汚染が進み、二〇一一年の段階で飲料水として用いることができる水は地区全体で一〇パーセントを辛うじて確保する状態にあった。汚染は広がり、二〇一六年には飲料水の確保はガザ地区内の水源ではほぼ不可能になることが予測されていた。

 この信じがたいような環境が、ガザ地区の日常であった。問題なのは、こうした苛酷な環境が、人工的に作り出されたものだということだろう。経済社会学者のサラ・ロイは、ガザ地区に対するイスラエルの政策を指して、「De-development」と呼んだ。つまり、意図的に低開発状態に留め置かれてきたのがガザ地区であると言う。もともとは、経済的な主導権をイスラエルが握り、ガザ地区やヨルダン川西岸地区といった占領地を安価な労働力の供給源に留める狙いがあった。

 実際に、占領地に暮らすパレスチナ人は、一九七〇年代から九〇年代頃までイスラエルでの出稼ぎによって現金収入を得ていた。ところが、一九九〇年代頃から、パレスチナ人にかわって東南アジア系の労働者がより安価な労働力としてイスラエルに流入した。占領地で一九八七年に起きたパレスチナ人の蜂起「インティファーダ」も、この傾向に拍車をかけた。こうして占領地が安価な労働力の供給源として「重宝」される時代が終わり、イスラエルの政策はパレスチナ社会に対する分離へと進んでいった。

 西岸地区では壁が象徴することになった分離は、ガザ地区では封鎖によって実施されていった。特に二〇〇五年の入植地撤去は、封鎖の完了に必要不可欠な出来事だった。九〇〇〇人程度の入植者を周囲の圧倒的多数のパレスチナ人から保護することが、イスラエルにとって安全保障上の負担になっていた。結果的に、入植地は軍を動員した実力行使によって撤去され、ガザ地区はイスラエルから見て「無用の土地」になった。

 ハマスがガザ地区の実効支配を始めるのは二〇〇七年のことである。きっかけは前年のパレスチナ国政選挙で、ハマスが過半数議席を確保したことだった。大選挙区で候補者を絞ったハマスの選挙戦略が功を奏し、それまでパレスチナ自治政府を率いてきたファタハの下野を実現した。しかし、過去に自爆攻撃を実施したことが主な理由となって、ハマスが率いる自治政府はイスラエルだけではなくアメリカやロシア、EU、国連からも直ちに承認を得ることができなかった。この機に乗じてファタハがハマスの追い落としを図り、両者は武力衝突に至った。西岸地区ではファタハが権力奪還に成功したものの、ガザ地区ではハマスがファタハの勢力を追い出して、実効支配を始めた。

 ハマスのガザ実効支配が始まっても、イスラエルは封鎖による対応に終始した。自国の安全保障に関連しない限りで、イスラエルはガザ地区に関心を示さなかったと言い替えても良いだろう。唯一の例外はガザ地区からイスラエルに向けて発射されるロケット弾や迫撃砲であり、これには迎撃システムのアイアンドームで対応してきた。

 二〇二三年一〇月七日の出来事は、イスラエルにとっては驚きであった。武装戦闘員が三〇〇〇人規模で越境攻撃を行うなど、想定すらしていなかっただろう。一方でガザ地区の住民が置かれてきた苛酷な環境を考慮すれば、この怒りや憎しみの爆発とも言うべき出来事は、決して説明が不可能なことではない。ガザ地区の社会と経済は、封じ込めのなかで崩壊していた。その矛盾が壁を破り、暴力的かつ悲劇的なかたちで帰結したのが一〇月七日であった。したがって、ハマスなどによる攻撃を、何かの手段であると考えることは、本質を見誤ることになる。イスラエル領内で一二〇〇人を殺害するに至ったあの攻撃自体が、住民に苦境をもたらしたガザ封鎖の終着点だったのだ。

 その後にイスラエルによる苛烈な軍事作戦が展開されることで、ガザ地区は戦場になった。電気と飲料水、燃料の供給が完全に遮断され、攻撃が実施された。国連がガザ地区に人間が暮らすことが難しいと予測した二〇二〇年を四年過ぎたいま、ガザ地区は文字通り人間が暮らせない土地と化している。犠牲者の人数は一月九日の段階で二万二〇〇〇人を超え、負傷者も五万人以上であると言われている。ただ、ガザ地区をめぐって消え去ろうとしているのは、人間性そのものなのかもしれない。名古屋市とほぼ同規模の二二〇万人の住民が、封鎖された土地で命の危険に晒され続けている。しかし、大国を含めた各国の足並みが揃わず、実行力ある戦闘停止の働きかけは行われなかった。これが、新たな禍根をもたらすことは言うまでもないだろう。

(中東地域研究センター)

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