HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報652号(2024年2月 1日)

教養学部報

第652号 外部公開

化学における「よく知られている」という思い込み

羽馬哲也

 「飽和脂肪酸」と呼ばれる化学物質がある。飽和脂肪酸とは何かを簡単に述べると、お酢に含まれている酢酸[CH3C(O)OH]の炭素鎖を伸ばした分子のことである。例えば、酢酸より炭素鎖が七つ伸びるとノナン酸[CH3(CH2)7C(O)OH]と呼ばれる飽和脂肪酸となる。飽和脂肪酸は植物や動物から分泌される油脂に多く含まれているため、我々も日常的に摂取している化学物質の一つである。

 近年、飽和脂肪酸は地球大気化学において大きな注目を浴びている。「気候変動に関する政府間パネル」による最新の報告書(第6次評価報告書)では、気候に影響を与える重要因子として「海洋エアロゾル」が挙げられている。海洋エアロゾルとは波しぶきなどで海洋表面から生成するエアロゾル(大気を浮遊している微粒子)のことであり、自然起源のエアロゾルでは陸上の鉱物微粒子と並び最も存在量が多く(一年間の発生量は約1・3兆kg)、太陽光を散乱・吸収したり雲の凝結核として働いたりすることで気候に影響を与えている。海洋エアロゾルには生物から排出された有機物が豊富に存在し、その割合は質量にして最大40%ほどに達する。そして海洋エアロゾルに含まれる有機物のなかで最もポピュラーなものの一つが飽和脂肪酸なのである。

 第6次評価報告書では、海洋エアロゾルの重要性が述べられていると同時に、その気候に与える影響については不定性が非常に大きいとも記されている。これは何故かというと、海洋エアロゾル内の有機物は、大気中のオゾン(O3)やヒドロキシルラジカル(O H)といった活性酸素種によって酸化したり、太陽光によって光反応をおこしたりすることで、その化学組成が時々刻々と変化すると考えられているためである。しかし海洋エアロゾルで実際にどのような物理・化学現象がおきているかについては理解が進んでいないのが現状である。このような状況のなか、二〇一六年に「飽和脂肪酸(ノナン酸)が太陽光を吸収することで光反応をおこし、雲の凝結核となるさまざまな有機分子を生成する」という実験研究の論文がScience誌に掲載された。この論文を皮切りに「飽和脂肪酸の光反応」について現在活発に研究が行われている。

 筆者はこれまでに宇宙に存在する星間塵と呼ばれる塵について実験研究を行ってきたが、二〇二〇年に東京大学に赴任して以降、エアロゾルなどの地球の物質についても研究をしたいと考えていた。そして「飽和脂肪酸の光反応」が地球大気化学の分野で注目されていることを知り、その光反応メカニズムを探るべく実験研究を開始した。しかし研究当初は不可解な結果の連続であった。たとえば異なる長さの炭素鎖を持つ飽和脂肪酸の試薬をいくつか購入し、太陽光の波長領域(295nmより長波長)について光吸収スペクトルを測定してみたところ、試薬ごとにスペクトルが大きく異なるという結果が得られた。飽和脂肪酸の光吸収はおもにカルボキシ[C(O)OH]基によって引き起こされているはずであり、炭素鎖長はそれほど影響を及ぼさないと予想していたので、この結果は予想外であった。

 そこで当時研究室の特任助教であった沼舘直樹氏(現所属は筑波大学)と修士の学生(齊藤翔大氏)とともに飽和脂肪酸が太陽光を吸収するメカニズムについて文献を調べてみたところ、これまでさまざまな仮説が提案されてきたが今でも決着はついていないということがわかった。その後も実験や文献調査を重ね、不可解な実験結果に悩みつつ、最終的に我々は「これまで報告されてきた飽和脂肪酸の光吸収は、実は飽和脂肪酸ではなく試薬中の微量な不純物によって光吸収がおきているのではないか?」という仮説にたどり着いた。そこでノナン酸試薬を精製する方法を追求し、低温環境(マイナス28℃)で再結晶法と呼ばれる精製法を十五回にわたり繰り返すことで、これまでにない超高純度のノナン酸を精製することに成功した。そしてこの超高純度ノナン酸の光吸収スペクトルを測定したところ、過去に報告されていた太陽光を含む240~310nmにおける光吸収は、実はノナン酸によるものではなく、0・1%以下というわずかな量の不純物が原因であることがわかった。光吸収がおきなければ光反応もおこらないので、二〇一六年のSci­ence論文を含む飽和脂肪酸の光反応実験はおそらく不純物に由来していると考えられる。これまでの実験については結果の早急な見直しが必要である。

image652-2-03.jpg ⒜太陽光の波長ごとの強度(太陽光スペクトル)と、再結晶法による
⒝精製前と⒞精製後のノナン酸試薬の光吸収効率(吸収断面積)との重なりを表した図。

 本研究によって飽和脂肪酸は太陽光を吸収しないことがわかった。飽和脂肪酸の光吸収の研究の歴史は古く、一九三一年にはさまざま飽和脂肪酸について測定がなされ「飽和脂肪酸は太陽光を吸収する」と報告されている。当時では本研究のような試薬の超高純度化を手軽に行うことは難しく、微量な不純物の寄与を評価することができなかったのは仕方がなかったであろう。そしてその後、多くの研究者によって繰り返し測定され、(そのたびに試薬の精製が十分になされなかったため)同様の結果が報告されることで「飽和脂肪酸は太陽光を吸収する」という固定観念ができてしまったのではないかと推測される。あるいは「飽和脂肪酸の光吸収は昔からよく知られている」という思い込みが研究者たちの判断を鈍らせてしまったのかもしれない。あらゆる測定対象や測定手法には、それら固有の誤差因子が存在する。実験結果に再現性があるからといって本質を掴んでいるとは限らないし、過去の実験が間違っていることは飽和脂肪酸の光吸収に限らず他の研究でも十分にあり得る。とくに光を扱った研究の場合、不純物が光増感剤(効率よく光を吸収し、化学反応を誘起する役割を担う物質)として働き得るので注意が必要である。今回の研究を通して「ちゃんと測定をすること」の難しさと大切さを再認識できたことが、自分にとって一番の収穫であった。

(相関基礎科学/先進科学)

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