HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報652号(2024年2月 1日)

教養学部報

第652号 外部公開

学部報の行方2・それはピタゴラスイッチ

寺田寅彦

 教養学部報の行方を論じる投稿シリーズが始まり、その第一弾は「所属部会のメールボックスに定期的に教養学部報が届けられるが、いつも、読まずにリサイクルボックスに入れる」四本裕子先生の投稿だった。そんな四本先生の続きをお引き受けすることになった筆者はと言えば、メールボックスに入っている教養学部報はおろか生協のパンフレットをも手に取ってのんきに目を通す性格だ。教養学部報委員会委員長の中井悠先生は、18号館のメールボックス室で楽し気に教養学部報を読んでいる筆者を見て、四本テーゼの反対命題を担当させるのにうってつけだと思って筆者に第二弾を依頼したのだと思う。

 四本テーゼは単純明快で、記事のタイトルにあったように「紙媒体の教養学部報はサステイナブルか」という問いかけだ。具体例を挙げて「やはりサステイナブルではないよね」という厳しい現実を日のもとに晒したのだ。詳細は前号を読んでいただくとして、確かに紙媒体の教養学部報は、紙・インク・物流コスト、さらに教養学部報委員会と執筆者の駒場教員の時間と労力を必要とする、現代社会ではサステイナブルとはいいがたいメディアだ。

 かく言う私も、教養学部報こそ紙で読んでいるものの、一般の新聞を紙媒体で読むことはない。それでも地方に出張したときなどに宿泊先で紙の新聞を手に取ることがある。一番驚くのは、情報が多岐にわたり、かつ大量だということだ。全体がたんに分厚いだけではない。見開き二面の情報量は、わたくしの(どちらかと言えば小さめの)スマホの画面で読む情報量とはけた違いである。ただ、スマホやPCと決定的に異なるのは、記事の内容が必ず一定のレベルに達していることだ。ネットでは人目を引くような強烈な見出しや内容が多いが、中を読むとその真偽すら疑問に思われるものも少なからずある。一方で一見無関係にすら見える内容の記事が混在する紙媒体の新聞でこのようなことが生じないのは、編集者の存在のおかげである。編集を表現の束縛のようにとらえる向きもあるかもしれないが、一定の方針があることでネット上の無秩序・無法状態とは明らかに異なる読みやすさと安心感が可能になるのだ。記事の配置もそれ自体が編集者のメッセージだ。情報過多ともいえる紙媒体の新聞にさまざまな工夫で秩序を与えるのが、これもまた編集作業なのだ。紙媒体はさまざまな制約があるからこそ、編集作業というステップを踏むことで、多種多様な情報を一定のレベルと安定感を保ちながら読者に提供できる存在なのである。

 教養学部報の編集委員会も同じ役割を十分に果たしている。そもそも教養学部は専攻ごとに専門が異なるので、記事の内容は多種多様にならざるを得ない。各号で取り上げる内容の方針を考えて、記事の執筆者を選定し、少ない紙面数ながらも全体の配置を考えることになる。教養学部報十二月号で言えば、「微生物が駆動する共生から病原と多彩かつ連続的な感染様式を支える分子機構の発見」という記事と「教養学部報はサステイナブルか?」という記事が第一面に掲載されていることは、記事の内容に関連があることを意味しない。スマホの検索だったら、同時に読者の目に入ることは決してあり得ないだろう。紙媒体の紙面は第一面を開いたときにこの二つの記事が同時に目に入ることを読者に強要する。読者はこの二つの記事に関心がないかもしれないが、それでもこの号で駒場の人たちに一番伝えたいものはこれだ、という編集者の思いを自然に理解するはずだ。本来つながらないことを、物理的につなげ得る存在、それが紙媒体の教養学部報なのだ。

 このように雑多な内容を教養学部報という一つの紙面につなぐ理由は、それらの記事が駒場の構成員のものだということだ。駒場の教員ならば、会議で頻繁に会う人の研究専門分野をなにかのきっかけで知ってとても驚くということを一度ならず経験すると思う。四本先生と筆者は今やピアノ委員会で頻繁にメールを交わす仲だが、四本先生が脳科学の専門家だと知ったきっかけはやはり教養学部報の「駒場で脳イメージング」(第五七五号)だった。教養学部報の記事を読むことがなかったら、四本先生を音楽センス豊かな働き者の先生ぐらいにしか思っていなかったかもしれないし、教養学部報の記事がネット検索だけで読むようになっていたら、脳科学に興味がない筆者はそもそもこの記事を目にすることすらなかったはずなのだ。このように高度でありながら多様な記事が一つの紙面に登場するのは、各専攻から編集委員が出ているという教養学部報の編集委員会の作業ゆえである。身近でありながらまったく異なる専門分野を一つの紙面にまとめて平然としていられるのは、総合文化研究科・教養学部という場が文理の壁すら超えた多種多様な専門性の共存する場だという認識が自然に根付いているからだろう。

 教養学部報はあの公共放送で放映されている「ピタゴラスイッチ」を思わせる。丸いボールが、身近なセロハンテープや辞書や鉛筆や消しゴムにぶつかりながら、思いもよらない道筋を通ってゴールにたどり着く。ボールを迅速にゴールインさせることだけが目的ならば、あんなくだくだしい道筋をたどることは必要ではない。でも多種多様なモノに出合って見事ゴールに到着するそのプロセスに視聴者の目はくぎ付けになる。紙媒体の教養学部報は、編集委員会のおかげで、鉛筆削りやペンや物差しのようなさまざまな駒場の構成員の各記事を多くの人に違和感なく届けてくれる媒体なのだ。サステイナブルではない面もあるけれど、多様性を可能にしてくれる媒体として、これからも読者の私たちに思いもかけないスイッチを入れてくれるのではないかと、筆者は楽しみにしているのである。

(超域文化科学/フランス・イタリア語)

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