HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報653号(2024年4月 1日)

教養学部報

第653号 外部公開

学部報の行方3・駒場にもっと「哲学」を!

石井 剛

 まずわたしの立場を明らかにしておきたい。①四本さんの発言(第六五〇号)には強く鼓舞された、②紙版学部報廃止の趣旨には明確に反対する、③議論を紙版存廃の二元論にしてはいけない、という三点である。これらから導かれるわたし自身の結論は、「駒場にもっと「哲学」を!」である。以下ではその心を述べたい。

 どんな偶然が幸いしたのか思い出すべくもないが、たまたま四本さんの記事を目にしたとき、わたしは日ごろの鬱憤が晴れ渡るような爽快さを覚えた(駒場では同僚を「先生」と呼ぶのが慣例化して久しいが、わたしはひそかに「さん」付けが当たり前だった頃の先輩方を羨んできたので、体にしみついた「先生」の呼称を本稿では大胆に改めたい)。四本さんは言う。「学内では他にも膨大な印刷物が飛び交っており、教養学部報が減ったところでカーボン排出量はさほど変わらないという考えもあるかもしれない。しかし、気候変動が人類一丸となって向き合わなければいけない問題となっている今、大学という場で無自覚にいるわけにはいかない。」そう、その通りだ。大学が人類と世界の問題に真剣に取り組まなければ、いったい誰がそれをやるのだろう。こういう正論を真正面からはっきりと言明している点がわたしにはとてもすがすがしかったし、このようなかたちで教養学部報の意義を問おうとした委員長の中井さんの決断にも心から喝采を送った。

 四本さんの紙版廃止論に反対の理由については、すでに寺田さんが温かい筆致で丁寧に述べており(第六五二号)、全く同感なので繰り返さない。敢えて付け加えるとすれば、学部報は情報媒体である以上に議論の触媒であると言いたい。教養学部は発足以来、幾度も危機に直面してはそれを乗り越えてきた。そして、学部報は危機の駒場においてここに集う人々の理性が存分に表現される場となってきた。例えば、一九八八年の第三三二号には「アカデミズムの再定義に向けて」というシンポジウム報告が三ページにわたって掲載されている。これは、直前に起こった人事問題を受けて企画されたものだそうで、そこでの重厚な学問論は、結果的に一九九〇年代に続く教養学部改革にも大きな役割を果たしている。

 教養学部の最大の魅力は「学問としての教養とは何か」という問いに対する探究自体によって学園生活が成り立っていることであり、同時に構成員がそれぞれのしかたで学問としての教養を欲していることである。この営みは智慧への愛というフィロソフィアの原義に沿うものであり、駒場の魅力は結局のところ広義の「哲学」が日々演じられているところにこそ存している。教養学部報は駒場における「哲学」の現在が一望できる媒体として存在すべきだとわたしは思うし、「哲学」とは本来、危機に際して力を発揮する限界状況の学問でもある(とヤスパースから学んだ)。四本さんの気っぷのよい発言は、駒場の学問がある種の危機に瀕していることのあらわれであるとわたしには受けとめられた。少なくともわたしは二〇二〇年以降そうした危機を毎日感じながら今日を迎えている。

 もっとも、わたしはこの補足を紙版廃止反対の論拠にしようとは思っていない(実際そうするには弱い)。わたしは今回の問題を紙版存廃の二元論に狭めてはならないと冒頭で述べた。実は紙版存続論には陥穽があるとわたしは思う。それは、文字媒体がもつ危うさをともすれば見落としてしまうことだ。古代ギリシアのアテネでソクラテスが行った哲学は専ら話し言葉によるものだった。ソクラテスは自分の言葉が文字になることをひどく嫌っていた。文字は言葉を発した人の意図を離れて勝手に流通してしまう。誤解されても反論すらできない。だから彼はただ「魂に刻まれた言葉」だけを信じた。わが愛する中国の哲人にしても事情は大して変わらない。孔子は自らの哲学を自ら文字に遺してはいない。彼の信条は「述べて作らず」、つまり、「述」(古文献の整理や解釈)に専念して「作」(オリジナルな創作)は行わない。その代わり、彼は諸国を遊行しながら礼と仁を議論する言と行の人だった。

 ともかく、わたしたちは文字の毒にもっと自覚的である必要があり、この点は電子版でも紙版でも本質的に変わることがない。文字は記憶の外化であり、その媒体は時に応じて変化してきた。紙から電子へというのはその長い歴史の一コマにすぎない。わたしたちにとってもっと大切なことは記録される事(=イベント)のほうだ。駒場キャンパスにおける「事」は教養の名のもとで営まれる学問生活全体にわたり、それらはつきつめれば言と行にたどりつく。ソクラテスが「魂」を強調するとき、それは個人のものである以上にアテネのものだった。魂に配慮するとは、対話を通じて智慧を探究し、一人だけではなく、アテネの市民全体がよりよい生を全うしていけるようになることを意味する。「アカデミズムの再定義」は学部報の中で行われたのではない。それは何よりもこの学園で起こった「事」であり、それは生身の身体による話し言葉の応酬だった。本来学問的な対話とは、相手を打ち負かす技術ではなく、異なる意見をぶつけ合うことによって新しい意見を生みだす智慧の技法、つまり魂を陶冶するアートである。わたしたちの学問が智慧への愛によって支えられるものであるなら、それは教養の名においてなされる言行によって、わたしたちの魂が豊かに育まれることであるはずだ。そして、そうした豊かな営みがあってこそ初めて、電子版と紙版がどのようにしてそれぞれの役割を発揮すべきかを議論すべきことにも意味が生じるというものだ。

 サステイナビリティが脅かされていることはまだ本当の危機ではない。人新世の危機に直面してわたしたちが「哲学」的な対話を通じて魂を配慮することができなくなった時こそは、真に危機的な危機の到来である。

 駒場が教養の場である以上、わたしたちは一人一人が智慧を愛する友としていまこそ「哲学者」であるべきだと強く思う。それが人類に希望を照らす唯一の道だからだ。

(地域文化研究/中国語)

第653号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報