教養学部報
第654号
シンポジウム「トライリンガル・プログラム(TLP)10年間の成果と展望」報告
鳥山祐介
二月十日(土)、東京大学教養学部附属グローバルコミュニケーション研究センタートライリンガル・プログラムの主催によるオンライン・シンポジウム「トライリンガル・プログラム(TLP)10年間の成果と展望」が開催された。
TLPは「グローバルリーダー育成プログラム」(GLP)の一環として二〇一三年に教養学部で発足した前期課程の学生のためのプログラムで、日本語と英語に加えもう一つの言語の力を集中的に鍛えることを趣旨としている。入学時にプログラムの履修を希望し、かつ一定以上の英語力を有すると判断された学生(上位一割程度)が主たる対象だが、途中編入の機会も設けられている。当初は中国語のみの展開で、二〇一六年度からはドイツ語、フランス語、ロシア語、二〇一八年度からは韓国朝鮮語、二〇一九年度からはスペイン語が加わった。毎年TLPでは公開シンポジウムを行っており、今年度はTLPの発足十周年という節目の年を記念する企画となった。参加者は最大で六十四名となった。
シンポジウムは全四部から構成されていた。宮地隆廣教授による開会挨拶に続く第一部「TLPの運営」では、これまでTLPの運営に携わってきた教員が登壇した。TLPの発足に関わった石井剛教授は、その当初の意図が「英語の一極化としてのグローバル化に対する批判的な知性の涵養」「英語と中国語を、世界に対する新たな認識と想像を構築するために表裏をなすロゴスの資源とみなし、それを学ぶこと」にあったとし、AI技術が大学の基礎教育での外国語学習の意味を揺るがす中でTLPが挑戦すべき課題は「ロゴスの揺籃」としての機能にあると述べた。受田宏之教授からはTLPスペイン語の現状、および修了生の進学先や検定試験の結果が示すその成果が示され、同時に入試英語の成績という基準がもたらす一部学生の同質化や運営に関わる事務作業の煩雑さといった問題も指摘された。録画で参加した三ツ井崇教授からはTLP韓国朝鮮語の沿革とカリキュラムが紹介され、英語成績に起因する修了者数の伸び悩み、語学学習から韓国朝鮮に関する総合的な知の獲得への回路の不在が克服すべき課題として挙げられた。鄧芳特任准教授からはTLP中国語の具体的な運営の現状が紹介され、日中関係の悪化等の条件下であえて中国語を学ぶことの意義が強調された。録画で参加したサンブラノ・グレゴリー特任准教授はTLPスペイン語のメキシコ研修の模様を紹介し、異文化接触の場である研修が「学生たちを人間として豊かにする経験」であったとした。
第二部「TLPのいま」では、現役TLP生(厳密には修了間もない二年生を含む)が登壇し、その生々しい声を聞くことができた。TLPのメリットとしては授業が少人数であることや、ある言語では「毎回授業が終わる頃には音読の繰返しで口が疲労し」「体育のよう」ですらあったという授業の濃密さなどが挙げられた。学習意欲や知的好奇心の強い学生同士の交流も魅力で、TLPのコミュニティを通じて第四、第五の言語に触れるケースもあったようである。また、メキシコ研修で知り合ったホンジュラスのLGBT支援団体で働く友人をめぐる、新たな人的つながりの起点としてのTLPの意義を象徴するようなエピソードも披露された。一方で一限に授業が入ることの多い時間割編成の不都合や、TLPの実態についての広報が事前に十分なされていないこと(「帰国子女向けだと思っていた」という声も)などが改善点として挙げられた。さらに「海外経験があるという意味での多様性はある一方、国内的な学生の多様性は低い」「関東や関西の有名進学校の出身者が多い」「英語力に基づく選抜の方法に原因があるのかも」という貴重な意見も寄せられた。
第三部「TLP修了生の現在」では各方面に進んだ修了生が登壇した。経済産業省勤務の大門かおり氏(中国語)は、TLPで得た言語スキルや問題解決能力、知識への貪欲さ、忍耐力等が現在の業務に直結していると述べた。医学部に進学した中桐悠一郎氏(ドイツ語)は、専門分野でドイツ語を役立てる機会はほとんどないものの、「色々な世界と出会うことで視野が広がり、人生が豊かになったこと」をTLPの学びが生きている最大のポイントとし、ゲーテの著作やバッハの声楽曲、ブロイスラーの児童書に新たに向き合った経験を語った。外務省に勤務する小笠原日奈氏(フランス語)は、TLPの授業での会話やディベートの訓練、またTLPで得られた人間関係が、現在のフランスでの在外研修に役立っているとした。公共政策大学院修士課程在学中の山田涼華氏(ロシア語)は、TLPでロシア語と真剣に向き合ったことが、ウクライナ侵攻後の情勢下でもロシアへの多様な視点を持ち続けるのに役立ったことを挙げた。文学部人文学科倫理学専修課程に在学中の西岳和生氏(韓国朝鮮語)は、TLPで韓国語が上達したという自信がフランス語という新たな言語に抵抗感なく踏み出すことを助けたとする。大学院教育学研究科修士課程に在学中の五ノ井杏氏(スペイン語)は、TLPでの経験が後期課程の進学先(地域文化研究分科ラテンアメリカ研究コース)決定にも影響したと述べた。全体としてTLPで得られるものも多様であることが強く印象づけられた。
第四部「TLPのこれから」では前TLP委員長の寺田寅彦教授と現委員長の鳥山が登壇し、TLPの今後に関わる論点がいくつか示された。東京大学が掲げる基本方針UTokyo Compass「多様性の海へ:対話が創造する未来」との関係、機械翻訳の技術の進歩やメディアの情報戦といった時代の変化を見据える必要性、他者との交流や自分の中の対話を通して人の成長を促す、TLPの人材育成の側面などである。さらにTLPでの学習が日本語を第一言語とする学生にはその日本語に意識的に向き合うことを促すという、「トライリンガル」プログラムの一翼としての日本語の位置づけについても述べられた。
全体として十年間のTLPの成果と意義の大きさが実感されるシンポジウムだった。むろん今回示されたように再検討すべき点もあり、また世界や日本、大学をとりまく状況からTLPが変化を求められる局面も多々あるだろう。とはいえ今回のシンポジウムではそうした変化の中でも守っていくべきものは何なのかが改めて浮き彫りになったとも感じた。
(言語情報科学/ロシア語)
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