HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報654号(2024年5月 7日)

教養学部報

第654号 外部公開

学部報の行方4・来し方に触れ

森元庸介

 錚々たる名題の連なるなか、いわゆる弁当幕である。ただ、めぐりあわせにより八度の執筆機会をこれまで恵与された教養学部報のことを思うと昼も目が覚めてしまう、とはいえ、閑居小人を地でゆく身がその行方を論じるのは気が引ける。来し方に思いを向けることにしたいが、それもまた、めぐりあわせをきっかけとしてのことだ。

 二〇一九年の夏、オープンキャンパスで後期課程・教養学科の紹介を担当することになった。持ち時間は二〇分。学科は全一九コースから成るので、公平を期すなら一コースあたり五〇秒も割けない。殺生な。別のゆきかたを探ろうと図書館へ赴き、学部創設から二年後の一九五一年、学科発足と時を同じく発刊された本紙創刊号を手にした。

 一面に初代学部長である矢内原忠雄の「創刊の辞」が載る。タイトルの「真理探究の精神を」よりも脇に添えられた「教養学部の生命」に注意が向いた。「使命」などではなく「生命」なのか......そう思って本文を読み始めるとすぐ、次のようにいわれる。

〔......〕ここで部分的専門的な知識の基礎である一般教養を身につけ、人間として片よらない知識をもち、またどこまでも伸びて往く真理探究の精神を植えつけなければならない。その精神こそ教養学部の生命なのである。

 なるほど、「生命」とは、「真理探究の精神」が「植えつけ」るべきもの、また「どこまでも伸びて往く」ものといわれるのを承けて選ばれた語だったわけだ。そもそも、有機的、という以上に植物的な譬喩が連ねられるのは、「教養」に対応する英語culture、さかのぼってラテン語culturaの原義「耕作」が意識されてのことにほかなるまい。そうして、生い育つものがあるためにまずは土が耕されねばならぬという公理のごとき機序を思うとき、「一般教養」にごく自然と添えられたかのような「基礎である」という形容も響きを深くする。

 同時に、耳学問の手前にあった思想史上の系脈、すなわち矢内原に別格の師として内村鑑三がいたこと、その内村は札幌農学校に学んでいたことなどが少しだけ肌触りを得るように感じられた。知られるとおり、師弟関係の核心は、内村、そして矢内原自身がいわゆる「無教会派」のキリスト者として立ったことである。「生命」の含意についても、その観点から掘り下げるべきかもしれぬが、いまは、矢内原が内村を「生命の親」と呼んでもいる(『続余の尊敬する人物』「内村鑑三」)─したがって、生命とはまた「心霊」、より一般的にいえば霊性のそれでもある─ことを思い起こすに留める。転じて札幌農学校との関わりについて、むろん矢内原はそこで直に学んだのでも教えたのでもないが、だからこそなおさらであるだろう、内村(そして、もうひとり新渡戸稲造)をつうじて自身をその精神的系譜に連なる者と位置づけた。この点でも、かのクラークに始まるキリスト教信仰伝承の意味はきわめて重い、と同時に、矢内原が戦後、農学校においてことがらの具体に即する「一般教育」が実践された意義を折々に力説したことを看過すべきではない。かれにとって、それは「国家主義から超国家主義に移ってゆくナショナリストたちを養成」して日本の文化的主流を成した東京帝国大学に対峙する、他に得がたい「アウトサイダー」たち(「内村鑑三と現代」)の源流そのものなのだった。

 だから、教養学部の理念的な根、その少なくともひとつを札幌農学校に求めることもできるだろう─オープンキャンパスの当日、内村の「不敬事件」、矢内原自身の「追放事件」、しかしまた今日、教養学科が学際科学科・統合自然科学科と並んでひとつの学部を構成してあることの意義などにも触れつつ、およそのところそんなふうに話を閉じた。矩を踰えたものだと思い返す。主眼がそこにあったのではないが東京大学を貶めるようにも聞こえたはずで、会場に漂った困惑の気配も記憶している。そもそも、わずかな語の連なりを恃みに風呂敷を広げ、しかし矢内原の経歴・言説の総体(とりわけその専門であった植民政策学)との関係、またその他もろもろの必要な検証を欠き、だからいささか教条的な調子なのでもあり、こうして稿を綴りながらも気後れは拭えない。ただ、研究の発表というのではなく、学部報の来し方を温ね、始まりの言葉に触れ、その謹直に比べていかほど軽薄なのであれ物思いをすることがあった、そうしたひとつの事例を提出しようと考えた。

 改めて、行方については、何ごとにせよ自身の名で記そうとは思わない。終わりの言葉もまた矢内原に借りよう。

 「内村鑑三とシュヴァイツァー」と題され、死の年の六一年七月、北海道大学─いうまでもなく札幌農学校の後身─の学生に向けて矢内原がおこなった生前最後の講演(『人生の選択』所収)は、表題のふたりを範例としながら(東京大学におけるかれの式辞の多くもそうあるように)「助けを求めている人々のところ」へ赴くべきことを若い聴衆に切々と説いたのち、「畑は広く、働く人は少ない」という言葉で結ばれる。マタイ福音書(九・三七)からの引用でまちがいないだろうが、だとすれば、日本語でふつう「収穫」などと訳されるところが「畑」となっている。言い換えはどれほど意識的であったか、見きわめはむずかしい。しかし結果的に、《得られたものを穫ること》から《穫るために為すべきこと》、つまり始めるべきこと─そうはいわれないが、畢竟、耕すこと─へと意味の重心が移されたとはいえるだろう。ひとつの生涯をつうじて培われた確信の轍は終わりにあって始まりを喚起しながら、そのために「働く人」を求めていた。だが、それは応えを強いる呼びかけ、というよりむしろ開かれた誘いであり、だからまた、広がるばかりの畑へ向かう者に慰めと支えをもたらす、かけがえない助け手からの声のように響く。

(超域文化科学/フランス語・イタリア語)

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