教養学部報
第654号
〈後期課程案内〉文学部 文学部と犬
人文社会系研究科 副研究科長 阿部公彦
文学部とはどのようなところなのか、今回は「犬」の喩えを使って説明したいと思います。
みなさんの近所に大型犬を飼っている人がいたとします。何しろ大きい犬なので、はじめはちょっとたじろぎます。でも、おとなしくて人懐っこく、いつも道行く人に頭をなでられています。あなたはそれほど犬に興味がないかもしれませんが、毎日見ているうちに何となく親しみが湧いてくる。そして、ある日、たまたま喫茶店のテラス席で隣り合わせたので、ふとみんながそうしているように犬の頭から首までなでてみると、ふかふかしてとても心地がいい! 犬が気持ちよさそうにしているのも楽しい! 犬最強! 至福のひとときです。それからは毎日、犬を連れた飼い主とすれちがうたびに挨拶し、犬の頭をひとなでするのが習慣となります。そして「この飼い主は犬とそっくりの顔をしているわね。晴れ晴れブラザーズと呼んじゃおうかしら」などと(口に出さないまでも)心の中で思うようになります。
私たちはこのように他者や動物、社会や環境とさまざまな出会いをし、関係に入りこんでいきます。それが生きるということだと言っても過言ではないでしょう。その結果、さまざまな気分や感情にとらわれたりもします。この場合は幸い「至福」の体験につながりましたが、実際には犬に吠えられたり、手をかまれたり、逆に犬の足を踏んづけてしまったりといったネガティブな事例も多々あります。
では、このようなささやかな「犬体験」は、文学部の学問とかかわりうるか? ここを出発点として考えてみましょう。
もちろん、かかわります。文学部には大きく分けて思想文化系、歴史文化系、言語文化系、社会文化系という四つの学問領域がありますが、たとえば一つ目の哲学系の領域の例で言えば、アリストテレスの頃から「人間と動物はどのように違うのか?」ということが問題にされてきました。今に至るまで人間と動物がどう異なり、どう重なるかというのは大問題で、哲学に限らず歴史や文学、心理学、社会学にまたがる領域で「動物批評」「環境批評」という枠が作られてホットな議論がかわされています。何といっても気になるのは人間と動物の間でどのように「共感」が可能なのかという問題でしょう。私が専門とする英文学の領域でも「一九世紀イギリス小説と犬」というようなテーマを立て、人間の恋愛譚に犬が抜き差しならない形で絡むのはなぜなのか、といったことを考察した学生さんがいました。文学以外の領域でも「ペットの社会学」「動物愛護のポリティックス」(社会学系)、「家畜化の歴史と経済シムテムのかかわり」「第二次世界大戦と犬」(歴史系)といったテーマもありうるでしょう。
人間と動物との近さを別方向に展開させれば、当然AIの話にもつながります。何が人間を人間たらしてめているのか。今後、AIが人間の行ってきた作業を代わりにやってくれるようになれば、「AIが人間に近いのじゃなくて、元々人間こそがAIに近いのでは?」といった問題提起もなされるでしょう。
もちろんこれは文学部の話にとどまりません。農学部では犬の生態を扱うでしょうし、街角で突然に犬に手をかまれたときにまず必要となるのは医学や法律の知識です。そうした専門知の蓄積が私たちの文明を支えてきました。
しかし、文学部の学問には技術論や制度論をつなぐ総合的かつ俯瞰的な特質が備わっています。その最大のメリットは「そもそも私たちはなぜ犬をかわいいと思うのか? あるいは怖いと思うのか?→「かわいい」とはどういう感情か?」「犬の頭をなでるって、そんなに良きこと? 私たち人間ってナニサマ?」といった「そもそも論」へと私たちの思考を開くところにあります。実証的な研究だけでは、なかなか「そもそも論」にまで目を向ける暇はないかもしれませんが、どんな研究者でも心の片隅にかすかなもやもや(=未解決問題)を抱えながら研究を進め、でも「今さら口にはできない」などと思ったりしているものです。実はそんな「そもそも」がうずたかく積み上がったときにこそ、これまでにない「知の地殻変動」が発生し、斬新な切り口が生まれるのです。
文学部の学問の特徴は、このようにうずたかく積み上がった情報の集積を対象とするところにあります。何しろ情報の集積ですから、どうしても古いものを相手にすることが多くなりますが、私たちがほんとうに瞠目するような新しいものは、既存のものや古いものをどう読み、どう切り分け、どう論じるかの検討から始まります。
文学部の各領域に時間をかけて育まれた「読解の作法」「議論の作法」が備わっているのはそのためです。この作法をディシプリンと呼びます。教養学部ではまずはこうした作法と接してみてください。そうすれば研究者が何をおもしろがり、何を語りたがるかが見えてくるでしょう。読み、考え、議論するってこんなに楽しいんだ、頭を使うって、こんなにエキサイティングなんだ、との発見があるはずです。まずは犬の頭をなでてみてください。
(副研究科長/英語英米文学)
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