教養学部報
第654号
空気ではなく空気感から考えるEAAトークシリーズ「アートを通じて空気をする」
野澤俊太郎
東アジア藝文書院(EAA)ではダイキン東大ラボ後援トークシリーズ「アートを通じて空気をする(Doing Air through Arts)」を企画し、二〇二三年度Aセメスター中に五回ほど一般公開のトークセッションを開催した。毎度現代アーティストや美術批評家などの方々を二名ずつお招きして、人々の意識の裏側にある空気、あるいは現代アート作品に織り込まれた空気についてご講演・ご対談頂いた。
同イベントが(もしかすると本学としては珍しく)現代アートに係るシリーズ企画であったのには理由がある。現代アートは、常識(としての近代)を疑い、固定観念を覆す表現形態であるがゆえに求められている。それこそが、EAAが必要とする認識上のパワーであった。実際、全セッションの根底には、近代的思考の帰結として私たちがモノ、コト、システムの中につい見出してしまいがちな自己完結性に対するクリティカルな洞察が横たわっていた。そして、空気への接近において、近代的思考では捉えきれない空気感のようなものに全く触れられないセッションはなかったと言ってよい。
例えば、第二回セッション「空気は生きているのか?」(二〇二三年十一月六日開催)では、音楽が醸し出す「生き生き」とした空気感を生物学的に評価しようとすることにより生ずる違和感が話題に上った。ゲスト・スピーカーの一人であったアーティストかつ細胞生物学者の岩崎秀雄氏は、その理由として生物学的生命性の指標それ自体が個体の有り様のみから還元された自己完結的なシステムであることに言及された。そして、むしろ人間こそが空気や大気を宿主とするウイルス的存在なのではないかという逆転の発想を示された。
このような空気感へのアプローチが身体(性)を巡る議論を軸に展開されたこともまた、多かれ少なかれ全セッションにおいて共通していた。第五回セッション「「ナチュラルな空気」が失われるとき」(二〇二四年一月十八日開催)から得られた一つの示唆は、「ナチュラルな」や「新鮮な」といった食材の質の形容のされ方を決定する様々な相対的要因の中に身体(性)を巡るロジックが紛れ込んでいるという点である。アーティストの永田康祐氏は、旬の概念を一つのテーマとしたご自身のコース料理形式のパフォーマンスを振り返りながら、その背後に動植物のバイオリズムから人間にとって有益な性質を得ようとする暗黙の前提が横たわっていることを浮かび上がらせた。それは、空気の質の形容のされ方を巡る議論にも通じるであろう。
そして、全てのセッションにおいて、緩やかに身体と空気が等価なものとして扱われつつ、同時に空気感を生み出す存在の一つとしての身体にぼんやりと焦点が当てられていた。第一回セッション「たゆたう肌の上の空気」(二〇二三年十月二十六日開催)にて上映された百瀬文氏の映像作品『聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと』は、耳の聞こえる百瀬氏と聞こえない木下氏による会話の様相それ自体を捉えることで、表情や身振り手振りといった身体から生み出される認識上背景化された空気感を前面に押し出している。美術家の大岩雄典氏をお招きした第四回セッション「気密をつくる」(二〇二三年十二月二十二日開催)では、ウイルスなどが空気を伝うという意味での「感染」とダジャレなどが人々の身体を伝って広まるという意味での「感染」およびその空気感が不思議にも同等のものとして論じられた。
「アートを通じて空気をする」から何か確固たる結論を導き出すことは難しい。ご登壇頂いた現代アーティストたちの空気感思考は、空気感を生み出している近代的思考では捉えきれないもの、認識上どうでもよいもの、不要なものへと絶えず参加者たちの目を向けさせた。しかし、それは今日とても重要なことのように思われる。つい捨象されがちな雑多なものたち、とりわけ身体(性)を巡る記憶やアイデンティティに根差したセキュリティの感覚のようなものが、今日世界中で噴出し、時として対立や分断を引き起こすまでに力を得ているように見えるのは私だけであろうか。
第三回セッション「体の中の空気たち─Doing Air through Farts」(二〇二三年十二月六日開催)においてパフォーマンスおよび対談をされる芸術家の水内義人氏(左)と本学中井悠准教授(右)
(東アジア・リベラルアーツ・イニシアティブ/東アジア藝文書院)
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