HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報654号(2024年5月 7日)

教養学部報

第654号 外部公開

多様性と生殺与奪――中国の少数民族語と台湾の原住民語から思う

吉川雅之

 本学に着任して四半世紀が過ぎた。近年学内で声高に叫ばれるようになったと感じる語の一つに「多様性」がある。私の研究は主に東アジア諸言語の音韻と文字表記に関するものだが、言語の多様性とは何かという問いに答えることはできても、多様性の実現方法まで示すことは難しい。実践に至っては尚更である。私をしてそう思わせるのは、特定の地域に固有でありながら話者数が少ない言語をどのように救済し、次世代へと継承していくかという問題の存在である。言語の多様性は文化的多様性の一側面として認識されることが多いようだが、実はそれに収まらない側面があまりにも大きい。ひとたび消滅すると復活が不可能に近いという点で、言語の多様性は寧ろ生物の多様性、特に種の多様性や生態系の多様性と重なり合う。私はこの重要な側面が現代社会において矮小化されてきたと感じている。

 中国は旧時より多民族・多言語社会と称されてきた。しかし、その多言語状況は今や黄昏を迎えつつある。政府が共通語である現代標準中国語「普通話」の普及に長年力を入れたことに伴い、一九八〇年代以降各地で言語固有種から普通話への言語シフトが主に若年層で加速度的に進行した。ここで言う「言語固有種」には中国語系の地理的変種のみならず少数民族語も含まれるが、次世代への継承が断絶に瀕している点で両者の間に違いはない。親の母語を子は聞いて理解することはできても話すことができない。孫は聞いて理解することすらできない。私の印象では言語シフト・継承断絶は北方よりも南方の少数民族語で深刻である。数多の言語固有種が危機言語と化した一因は、政治・マスメディア・教育の言語を普通話がほぼ独占する中国に特有なシステムにある。だが、言語固有種が家庭内言語へと追いやられた上に、親が子との意思疎通に言語固有種ではなく普通話を選ぶようになった背景には、子が中国ひいては中華圏という競争社会で勝ち残ることを願う民衆心理も存在している。

 中国とは対照的に、台湾は多様性を核心的な価値とする社会であるという言説を近年の日本では多く目にする。しかし、言語状況については現在の台湾は台湾本来の姿から大きく懸け離れたものへと変化してしまっていることを知っておく必要がある。

 先ず、現在の台湾で地理・場面といった各種条件の如何を問わず用いられうる「國語」─現代標準中国語の一種─は、第二次世界大戦後に国民党と共に中国から持ち込まれた外来種である。そして、一九五〇年代から半世紀に亘って国民党政権が行った、言語固有種を公的な場から排除するという政策の結果、日本による皇民化によってすでに若年層で弱体化していた多くの原住民語(オーストロネシア語族に属する先住民語のこと)が危機言語と化すに至った。民進党が政権の座に就いた翌年(二〇〇一年)には閩南語(いわゆる台湾語)・客家語・原住民語のいずれかが小学校で週一コマの必修科目となり、次世代への継承という取り組みが始まったが、危機的状況は今もなお進行しつつある。約二世代に及んだ抑圧─特に学校教育での使用禁止─が使用言語を「國語」へと強制的に移行させただけではない。異なる集団間での往来が頻繁に起きる現代社会は、限られた地域でしか話されていない言語の生存空間と存在価値を絶えず矮小にする。

 現在の中国社会と台湾社会は、それぞれ中華人民共和国と中華民国が二十世紀に構築した国民統合のための新しい言語システム─普通話・國語という一極のみに収斂する画一的モデル─へと乗り換えが完了した状況にある。この新システムを普遍的なものにするための尖兵となるか、普遍的なものへと成長を遂げる新システムの虜囚となるか、新システムに取り残されて社会の周縁に甘んじるか、大多数の国民はそのいずれかであったろう。勿論、中国社会と台湾社会で異なる点は幾つも存在した。だが、私が注目しているのは社会が新システムへと乗り換えてしまった現状下で、システムから取り残された部分について、次世代への継承をどうするのかという問いである。この点について中国と台湾の間には根本的な懸隔が存在しているようだ。

 中国では新しく発見された言語について音韻・語彙・文法を記述した調査報告書が一九九〇年代以来多く刊行されてきた。しかし、それら新発見の言語であるか否かを問わず、少数民族語の学習教材の刊行は極めて低調である。体系的な学習を支える教材セットとなると皆無に近い。言語の救済が民衆の意識に上らない原因として、言語が中国では便利な伝達の道具と位置づけられていることを指摘する研究者もいる。傾聴に値する見解だと思う。一方で、二〇〇一年に施行された『中華人民共和国国家通用語言文字法』によって普通話は国家語という地位を明確に付与され、一極化は完成した。そして、二〇二〇年には内蒙古自治区が民族学校でのモンゴル語教育を禁止した。一連の言語政策に見え隠れするのは単一言語社会という理想郷である。

 台湾では原住民語継承のための学習教材が一九九〇年代に現れている。二十一世紀に入ると、学年毎に対応した九分冊から成る、かつ教師用指導書も別冊として用意された小中学校用教材が刊行されるが、話者数がわずか数百名の言語であってもそれに対応したバージョンが刊行されていることから感じるのは、言語の生に対する政策立案者の執念である。二〇一四年以降は検定試験「原住民族語言能力認證測驗」が毎年行われている。また、幾つかの大学に設けられた原住民語学習センターではレベルや目的に応じた講座が開講されている。教材や辞典以外では絵本や創作文学賞作品集が刊行されている。成否や得失については様々な意見があるが、しかしこうした種々の取り組みにとって、二〇一七年に『原住民族語言發展法』が公布され、原住民語が国の言語という意味の「國家語言」─その概念は社会言語学で言う国家語とは異なる─という地位を与えられたことは追い風であったに違いない。今後は二〇一九年に開始した「十二年國民基本教育課程」の下で原住民語をはじめとする台湾の言語固有種の窮状に歯止めがかかるかどうか、民衆の意識改革が進むか否かも含めて注目せねばならない。

 人間がこの世界をどのように認識しているかに言語が深く関わっているとするならば、言語の多様性は世界観の多様性に繋がる。そこにあるのは己とは異質な「他者」のいる世の中である。私は学生だった時、言語調査報告書を読んで、中国雲南省で話されているリス語では地形に応じて異なる指示詞が用いられることや、台湾の阿里山で話されているツォウ語では見えているものか否かで異なる指示詞が用いられることを知り、驚いたことがある。彼らは現代標準中国語の話者とは異なる基準で距離や領域を認識しているのだろう。

 親が子との意思疎通に言語固有種を用いなくなったことをアポトーシスと評価する気にはなれない。遺伝的多様性ならぬ世界観の多様性を欠いた集団が環境変化に耐えられるのか憂慮する。一方で、過去に言語の排除を二度経験した社会が進める言語復興は槐と接ぎ木から構成された人工林に見える。言語の生殺与奪が社会の在り方そのものと連動していることに慄然とせずにはいられない。

(言語情報科学/中国語)

第654号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報