教養学部報
第655号
アウグストゥスの邸宅(ヴィラ)なのか?――2024年4月17日記者発表しました!
村松真理子
1.AD一四年八月一九日
「あなた方は、わたしがこの人生の喜劇で、自分の役を最後まで上手く演じたとは思わないか?」
人生の終わりが近づいたときに、友人たちを呼び寄せ、このように問いかけたのはだれか? まるでシェークスピアの芝居にでも出て来そうなせりふ。
「この芝居がいくらかでもお気に召したら、どうか拍手喝采を。そして、あなた方はみなご満足でお引き取りを」そう言って人々を引き取らせてから、妻の腕のなかで彼はこときれた......。
この情景が記されているのは古代ローマのスエトニウスの『皇帝伝』(岩波文庫版から引用)。ほかならぬ初代皇帝オクタヴィアヌス・アウグストゥス(BC六三年~AD一四年)の最期だ。ナポリからローマへと戻る途中、ノラの地で病床についた老年のアウグストゥスは、タキトゥスの年代記にあるように、AD一四年、「BC四三年に元首が命令権を獲得した日と同じ」日付の八月一九日、「彼の父オクタウィウスが生涯を終えた地ノラの、あの邸宅のあの寝室で」没した。
2.二〇二三年九月七日
さて、時はうつって二〇二三年。南イタリアのカンパニア州ノラの町から遠からぬソンマ・ヴェスヴィアーナ市の一角。東京大学の発掘チームが大規模なローマ時代の「別荘(ヴィラ)遺跡」の発掘をはじめて、二一年目の夏。新たに発掘された建物の遺構部分から、多くの美しいつぼ(アンフォラ)や、浴室(テルマエ)にお湯を供給するための窯らしきものが姿を現し、さらに火砕流や土石流の流入で倒れたらしい壁や屋根の瓦が散乱し、その上部や隣接した屋外の地面は一面灰色の軽石や土砂で覆われていた。年の暮れに手元に届いた軽石の分析結果は、ヴェスヴィオ山の七九年の火山噴火に伴う降下物の組成を示していた。
つまり、二〇〇二年以来、およそ三、三〇〇㎡の範囲にわたって、二世紀半ばに建てられた建物の発掘調査を進めてきたが、ここにきて、その建物の下から、一世紀の前半にはすでに存在していた建物の一部が発見されたのだ。アウグストゥス帝が生きた時代の建物が姿を現したのである。そして「現在まで得られている状況証拠に依る限り」という条件付きではあるが、この建物がアウグストゥス終焉のヴィラである可能性は高い。その研究成果について、さる四月一七日(水)駒場Ⅰキャンパスで、プロジェクトを担うグローバル地域研究機構地中海部門が記者発表を行ったところだ。
上空から見た屋根がけされた調査地
3.一九二九年
また時間をすこし遡ろう。一九二〇年代の終わり、ソンマ・ヴェスヴィアーナの街の郊外。農地の真ん中に道具小屋を作ろうとした土地の所有者が、硬い構造物が地下に埋まっているのを掘りあてた。それをきっかけに試掘調査が行われ、壮麗な建築物の一部が掘り出された。壮大な角柱、「英雄像」の大理石彫像の断片、大規模建築遺構であることを示す柱やアーチ......。
これがアウグストゥスが亡くなったヴィラではないかとの仮説と期待のもと、地元で本格的発掘調査への機運がもりあがる。専門家に依頼して模型や図面が作られ、大理石彫像の断片が写真家によって撮影され、地元の名士である郷土史家がリーフレットを刊行する。そして、時のムッソリーニ政権に働きかけるが、三〇年代以降の経済・政治状況のもと、本格調査にはいたらず、遺構は埋め戻されてしまった。
4.二〇〇二年
そして、二〇〇二年、その地で青柳正規教授(当時)のもと、東大チームが本格的発掘調査を始めることになったのである。まず始めに、一九三〇年代の試掘で出土した壮大な建築物の一部を、再び地中からよみがえらせることから発掘作業は進められた。ぶどう酒の神、ディオニュソス像の出土とあわせ、建造物にほどこされた浮き彫りの装飾からは、この場所がその祭儀に結びついていたことのみならず、皇帝アウグストゥスゆかりの地であることも推測された。
一九三〇年代の試掘時と同様、アウグストゥスとその父が死去した建物であるという仮説のもと、東大チームも発掘調査を進めたわけである。しかし、今回は、文理融合学際研究として、当時の藤井敏嗣教授率いる火山学・地震学の専門家チームが当初から地質学的な調査を始めた。そして、この壮麗な建物の位置する地層の「層位」は、一世紀の噴火ではなく、五世紀の噴火による火山性の堆積物で埋まっていることが明らかに。アウグストゥスのヴィラではなかった! のである。
しかし、この「失望」にかかわらず、調査研究は続けられ、以下が明らかになった。①この建築物が作られたのは二世紀で、祭儀や公的な機能を果たした重要な建造物だったことが様式や規模からうかがわれる。②ノラ周辺地域および帝国全体の社会的経済的な変動と衰退につれ、建物の用途と機能の変遷があったと読み取れる。すなわち、ぶどう酒の生産施設として使われたり、本来の建物と場所の社会的重要性が変わったりしたのち、最終的に廃墟化しつつあったところに五世紀のヴェスヴィオ山の大規模噴火の火砕流と土石流により埋没した。
こうして当初の仮説とは異なる方向に研究は進んだが、ヴェスヴィオ山の北麓地域の「自然環境ならびに社会の復元と解明」というテーマが研究の中心に据えられ、出土した大型遺構とさまざまな遺物から古代末期・中世初期にかけての変遷のみならず、地中海全域の交易史に関わる事実も明らかになった。噴火で埋まったポンペイやエルコラーノという有名な古代都市のある南麓とちがい、未解明の部分が多かったヴェスヴィオ山北麓地域への研究関心を、国際的にも牽引する成果をあげることとなったのだ。
美術史的にも、大理石彫像はじめ、モザイク、壁画など、興味深い発見にめぐまれた。特に美しい「ミュージアムピース」である、ディオニュソス像と女性大理石像の二体は、二〇〇五年の愛知万博や、二〇二二年に開催された「ポンペイ展」の機会に「来日」、美しい姿を披露した。
5.二〇一七年
そして、二〇一七年、発掘調査はあらたな局面に入った。イタリアと日本の方法をすり合わせつつ地層ごとに「層位的」に調査をしてきた国際チームの発掘作業で、出土済みの二世紀に建設され五世紀に埋没した建物の深い部分やその周辺で、より古い時代の建造物の存在がほの見えてきた。調査隊は、コロナ禍をのりこえ、発掘調査可能区域を広げていった。
そして、二〇二三年の発掘。ついに、七九年のヴェスヴィオ山の噴火で破壊され、埋没した、より古い建築物が、それまでになくまとまった形で破壊時の状態を示して出土した。七九年の噴火は、おじである大プリニウスが犠牲になったことを記す小プリニウスの記述で知られ、ポンペイの町を埋め、人々の命と文明をすっかり破壊したものだ。時間的経緯やメカニズム、降下物等について、すでにイタリアの地質学・火山学研究がかなり解明している。
今回の東大チームの考古学的調査と堆積層から見られる火山学的な調査、あるいは堆積物の理化学的組成分析などからは、ヴェスヴィオ山の北側でも今まで考えられた以上に七九年の噴火の被害が大きかったこと、灰が大量に降って家々を破壊したポンペイと比較して、北側で深刻な被害をもたらしたのが火砕サージや土石流の影響だったことなどが明らかになった。そして、このより古い時代の建物については、その創建時期がどこまで遡るかは今後の検討課題であるものの、少なくとも一世紀半ば頃までは使われていた、おそらく非常に大きな規模の建造物の一部らしいことがわかってきた。
上述のように、古い時代に遡れる保存状態のいいアンフォラが多く出てきたほか、この遺構にテルマエがあったらしいことも見えてきた。焚き口の窯があったことがうかがわれる部分と、アーチ構造で別の部屋につながっている部分が出土している。そして、窯らしい部分の層位のサンプルから、一世紀に人々の生活があったという年代が確定できたのである。
つまり、二〇年の調査を経て発掘調査は、スタート地点にふたたび戻った! 「アウグストゥス帝時代のヴィラなのか」「皇帝ゆかりの土地に立つ皇帝一族のヴィラなのか」を解明すべく、新しいフェーズに調査は入った! 七九年の噴火の時点に存在していて破壊された建築遺構と、二〇〇二年以来出土し研究されてきたヴィラ建築遺構という、二つの建造物と考えられる大規模な遺構の存在が明らかになったわけで、二世紀の建物が、一世紀の建物の上につくられた可能性は高い。
二〇二三年出土の一世紀の建物。テルマエのボイラー跡(右上)
6.二〇二四年
では、二〇二四年は、何が予想できるか? まず、建物の壁に穿たれている窯の焚き口と考えられるアーチ構造の開口部を覗くと、その先には別の空間が拡がっており、やはり同じく火砕サージの極細砂や火砕流堆積物で埋まっているのが見える。今後そちらの方向に発掘調査範囲を拡げることが可能なら、浴場建築(=テルマエ)の存在が実証される可能性は大きい。もし大きいお風呂がそこにあったのだ、としたら......。一世紀半ばには存在していた公共性の高い建物か(公衆浴場?)、あるいは紀元前後に遡りうる大きな個人邸宅だったのか?
それが「アウグストゥスのヴィラだった」のかどうか。彼の死後、ローマ帝政期のスエトニウスが記す葬列・葬儀や皇帝を神のように祭る霊廟など、本格的な皇帝崇拝が始まる。七九年に埋まった「ヴィラ」と、場所の「記憶」の上に建てられたらしい二世紀以降の建物の二つが、当時の政治経済・社会・祭儀について、長い忘却の世紀の後に、私たちに語ってくれるだろう。
そして、アウグストゥス本人のヴィラであるかどうかにかかわらず、間違い無く、七九年の噴火が、この地域にどのような影響をあたえ、古代ローマ社会にどのような影響を与えたのかについて、新たな側面が明らかになるはずだ。火山噴火による破壊から、古代社会の営みの復興までについては、北麓では七〇年ほどでなされていたことは、そもそも今まで知られていなかった。そこから、災害考古学的な新しい知見が得られるだろう。
7.遺跡を未来に伝える意味
どうして、何を目指して、日本から東大チームがこのような研究をしているのか。それは、東京大学が戦前とは異なる戦後のあらたな枠組みと哲学をもって、海外考古学調査を一九五〇年代からアジアや中南米で進めてきた蓄積の上にある。「国家主義」や「国家」の枠組みを超えた、新たな関係性と文化的アイデンティティーの共有を基礎にした、「文化」の保存や修復への国際貢献につながっている。ソンマ・ヴェスヴィアーナをめぐって、「遺跡を未来にむけてどのように残すか」という研究調査、保護・保存・修復のフェーズが、イタリアの協力者と日本側の研究機関の間で、始動しつつある。二〇年以上にわたる長期的な日本の調査団による、世界の近代考古学発祥の地ともいえるイタリア、ヴェスヴィオ山麓地帯での研究成果をどう未来に託すのかは、国際的にも注視されている。昨年からイタリア国営放送をはじめとする報道機関だけでなく、世界的ドキュメンタリー映画作家のジャンフランコ・ロージ監督が現場の調査や学生たちの国際研修の様子を撮影に訪れた。
文化遺産が自然災害や国際紛争の危機と破壊に瀕する現在、有形無形にかかわらず、文化財の研究・保護・保存修復は人類にとって緊急の課題だ。それは世界の多様な人々の生活と「文化」と「記憶」を共有する平和への試みでもある。「アウグストゥス帝のヴィラ」発掘調査が目ざすのは、国際的学際協力と文化的共生の一つのモデルを提示することでもある。九月には一週間の国際研修プログラム「イタリアで考古学を体験する」を現場で開講する。
記者発表後、NHK、朝日はじめ主要な新聞・テレビ報道各社が研究成果を続々紹介してくれています。ニューズウィーク、BBCなど海外メディアにも報道されました。
さいごに、とても大事なお願い。公的研究費の大幅削減で、佳境の発掘調査をキープし発展させるため、寄付金が不可欠です! ぜひ、「東京大学基金」のウェブページ(https://utf.u-tokyo.ac.jp/project/pjt07、動画・画像も豊富に掲載中)を見て、理解と協力を世の中によびかけ、支援してください!
(グローバル地域研究機構地中海部門長/地域文化研究/フランス語・イタリア語)
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