教養学部報
第655号
<時に沿って> 流れに棹さし
及川 茜
元は犬だったか蚯蚓だったか知らないが、「今朝がた人間になりました」という感覚は少しばかり馬齢を重ねたところで抜けそうにない。新年度の授業が始まって二週間が経ったものの、授業の前には右往左往して教室を探し回り、授業が終われば今度は研究室に帰り着けなくなる始末で、甚だ心もとない。
大学では中国語を専攻したが、いったいいつになったらまともに読めるようになるのだろうかと遅遅たる歩みに不安を覚える日々であった。実際、文言文も含めて「まともに読める」レベルには今なお到達せず、日々辞書と格闘したりウェブの海に手がかりを求めては呻吟を続けている。学部の卒業論文に中島敦を選んだ後、大学院では中国近世白話小説の江戸文学への影響をテーマとし、都賀庭鐘という文人を手がかりに研究に着手した。現在は近現代に主軸を移し、中国語で書かれた文学全般を、特にマレーシアや台湾を中心に研究しながら翻訳紹介も行っている。
研究の起点は日本語と漢文あるいは中国語世界を往還しつつ書くことへの関心であったが、転機というべきものがあるとすれば博士課程在学中に経験したシンガポールへの短期留学だろうか。教室で用いられる中国語のとりどりの色合いと、それを発する個々の身体の存在感にすっかり圧倒されてしまった。聴覚に意識が向くことで、自分がそれまで中国語をあくまで文字として視覚から理解していたことに気づかされた。
こうした研究方向の節操のなさも祟り、その後も紆余曲折を重ねた末、四月から駒場のスタッフに加えて頂くことになった。「女性活躍推進」という流れに棹さす形になったが、これまで女性研究者として道を拓いて来られた方々に深い畏敬の念を抱くと同時に、その恩恵に与ることにはなお若干のとまどいを抱いている。多くの「女性」の担う対人関係上の有形無形の役割をほぼ放棄し、孤立死への道を直進する自分に、果たして東京大学に在籍する「女性」教員の数値を一人分押し上げる資格があるのだろうか。
さらに、非正規労働者の問題が疫禍によって残酷なまでに剥き出しになった四年前を思い返すと、根本的には何も解決を見ないまま、非常勤教職員の存在に多くを負い続ける大学という組織、ひいては社会全体の構造に、専任教員として自ら加担することに正当性を与えられる自信はない。こうしてタイプする文字も、その端から形骸化したエクスキューズに堕すことに絶望的といってよいほどの焦燥感を覚える。
ないない尽くしのスタートだが、キャンパスに集うどの身体も、権利主体である個々の人間のものだという確かな感覚はある。「女性」採用に対する疑いや後ろめたさが何に起因するのか、あるいは雇用から疎外され包摂されることの意味といった問いに向き合える場でもあろう。この小文をおためごかしの多様性の礼賛や空虚なパフォーマンスにとどめることなく、実質を伴う思考へと伸ばす指先の力としたい。
(超域文化科学/中国語)
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