HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報655号(2024年6月 3日)

教養学部報

第655号 外部公開

<時に沿って> あれも文化、これも文化

オオツキ・グラント

image655-4-3.jpg 今年四月一日付けで本学准教授に着任しました、オオツキ・グラントと申します。何故私の苗字はカタカナで「オオツキ」であり、ファーストネームが「グラント」か、といいますと、実は私が専門としている文化人類学と深い関係があります。

 私はカナダの西部に位置する、カルガリーというところで生まれ、高校を卒業するまでそこで生活していました。カルガリーは大自然に恵まれ、冬はスキーとアイスホッケー、夏はアメフトとロデオ観戦といった、アウトドアが好きな人にとって最高の環境に囲まれていました。しかし、私はアウトドアに一切興味はありませんでした。学校の他の男子がスノボやスキーに行っている週末、私は家でパソコンをいじったり、SF映画を見たりするのが好きでした。要するに、私は典型的な「Nerd(いわゆるオタク)」でした。小学校時代は私が数少ない他のnerdと仲良くなり、nerdyなことをして、楽しい日々を過ごしていました。

 そんな私が高校に進学したのは一九九四年でした。香港が中国に返還されようとしていた時代でもあり、学校に香港系の生徒が急に増えるにつれて、「アジア系(Asian)」という、私にはよくわからなかったカテゴリが学校で目立つようになりました。私も、気づいたら「Jap」ではなく「Asian」と呼ばれるようになりました。AsianとNerd。AsianだからNerdだったのでしょうか? それともNerdだからAsianでも構わないと思われたのでしょうか? 色々な偏見が学校の中で他の生徒から口にされるようになり、時には教師までもが口にするようになりました。そのうち、アジア系の生徒が皆校内のカフェテリアの奥のテーブルで一緒に座るようになり、学校にちょっとした亀裂が生まれたように見えました。

 今から振り返ると、その光景を「人種(race)」や「男性性(masculinity)」のような概念を使って解釈できますが、当時の私はまだそういう言葉は知りませんでした。東アジアにおけるポスト植民地的地政学、カナダのアジア系移民に対する暗い歴史と現在のマルチカルチュラリズム、高度経済成長期の日本社会に違和感を感じ、私の両親のように自国を離れた当時の若者たちの複雑な思い、パソコンの普及とともに広がったデジタル技術に対する個々人の解放と社会変革への希望。今だから、これらのような要素が複雑に絡み合って、高校生の私と置かれた環境が構築された、というような考察ができます。ですが、当時の私にはそこまで思考が届かなかった。しかし、なぜこの社会はこうなってるんだ、という問いは確かに頭の中にありました。

 その後、高校を卒業し、理系の勉強をするために日本に留学しましたが、「社会」や「文化」に対する興味がより深くなり、博士課程では文化人類学を専攻することにしました。その勉強を通して、周りの人の話を慎重に聞き、私たちを取り巻く世界を様々な視点から考察し、高校時代の私を悩ませていた問いの答えを色んな場所で模索してきました。

 きっと学生の皆様にもこのような問いがあると思います。教養学部の大きな魅力は、文理問わず、様々な学問の勉強ができ、自分の問の答えを探すためのツールを見つける機会に溢れていることだと私は考えています。この大きな、多様な学部の中で、文化人類学をみなさんにこれから紹介できることを光栄に思っています。

(超域文化科学/文化人類学)

第655号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報