HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報657号(2024年10月 1日)

教養学部報

第657号 外部公開

<本の棚> 浜田明範 著 『感染症の医療人類学 ――ウイルスと人間の統治について』

市野川容孝

image657-2-2.png 二〇二〇年、コロナ禍まっ只中で、雑誌『現代思想』が「コロナ時代を生きるための六〇冊」と題し、各執筆者にそれにふさわしい一冊を選んで論じさせるという特集を組んだ(同年九月臨時増刊号)。私はヴァルター・ベンヤミンの「暴力批判論」(一九二一年)をあげ、その構想メモに彼が記した次の一節を引用した。「そして、次のような問いが生まれる。一体どのようにして、人間は、自由な共同体の中で、自らの生命を確かで安全なものにすべきなのか」。

 「暴力」と訳されることの多いドイツ語のGewaltには「正統性をそなえた権力」という意味もあり(たとえばGewaltenteilungは三権分立のこと)、その元はwalten(統治する)という動詞である。ベンヤミンはこの論考で暴力と同時に統治を論じており、彼はその統治の根源に自由と安全性(セキュリティ)という、水と油のように対立しがちな目標を、しかし、そのどちらも手放さずに達成するという課題を見ていた、とした上で、私はコロナ禍で求められていることも同じだと考えた。第一次大戦直後にベンヤミンはそう書いたが、同大戦期に流行したインフルエンザによる世界の死亡者数は、戦死者数(約九百万)の最低でも約三倍とされている(新型コロナによる世界の死亡者数は昨年三月上旬までで約六九〇万)。

 副題に「統治」とあるのを見て、私は以上のようなことを本書に重ねて読み進めたのだが、あながち間違いではなかったように思う。治療薬もワクチンも見つかっていない以上、人びとの生命を守るため自由の大きな制限もやむを得ない、という安全性の論理と、そうやって国家や専門家の言うことを中心に制限や禁止を強化するのは許すまじき専制だ、という自由の論理がコロナ禍では対立したが、浜田先生は一九七〇年代後半に成立した医療人類学の立場から、その両方を否定しない道を粘り強く切り開こうとしている。本書第二部の、それぞれ「二〇二〇年四月七日」「同年八月二七日」「同年一〇月二七日」「二〇二一年一二月三一日」「二〇二三年二月二七日」という日付をもつ文章は、そのためにリアルタイムでなされた思索の記録である。

 あれか、これかという二項対立をすり抜ける上で本書が注目するのは「パラ」という言葉ないし考え方である。それは「ポスト」や「アンチ」と違って、二つ以上のものの並存を表す。安全性か自由かという右の対立は、医学(公衆衛生)の論理に無批判に従うか、それともこれを批判するかというふうにも変奏可能だが、医療人類学は後者の医療批判を第一の課題としてきたと浜田先生は言う。私が関わってきた医療社会学も一九七〇年代以降の状況は同じだったが、浜田先生はそれではダメだと言い、「パラ医療批判」という姿勢、すなわち「生物医療の無謬性を認めないという批判性を従来の医療批判から引き継ぎながらも、生物医療の有効性も正当に評価する営み」を提唱する(五五~六頁)。これに先立って人類学は「パラ国家」という概念も提示してきたが、それは国家の限界や欠陥を見据え、NGО等のアクターに注目しつつ、同時に国家の責任や役割も肯定する。自由かつ安全な共同体を可能にする統治も、これら二つのパラを補助線として構想されるべきなのだろう。

 本書で大事なのは、直近のコロナの問題が、二〇〇〇年代後半から浜田先生がガーナ等でおこなってきた感染症に関する医療人類学のフィールドワークに重ねて考察されている点である。二〇一四年のアフリカでのエボラ出血熱の流行やその他の感染症の経験に重ねてコロナ禍が考察されている。それが本書を非常に奥行きのあるものにしている。薬剤が病原体を打ち抜くという「魔法の弾丸」の空間的比喩でのみ医療を考えていては、薬剤の継続的服用が実際には不可欠のアフリカでの感染症対策の現実を捉え損ねると浜田先生は言い、医療における「時間」の重要性を指摘するが(第三章)、同じことはコロナ後遺症、すなわち疾患の持続という問題を考える上でも重要だろう。

 もう一つ、オランダの人類学者のアネマリー・モルが説く「ペイシャンティズム」という考え方にも啓発された。それは「生活のための標準を健康な者ではなく、身体に何らかの不具合を抱えているペイシャント(患う者/患わされている者)の方に設定しようという態度」である(一五九頁)。そう考えれば、感染リスクの高い人に合わせた行動様式が自ずと求められるはずだ。他にもさまざまな示唆やヒントを私自身いただいた本だった。

(国際社会科学/社会・社会思想史)

第657号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報