教養学部報
第657号
大規模化するシベリア森林火災の広域的な経済影響を評価する
成田大樹
近年世界各地で極めて大規模な森林火災が毎年のように発生していますが、シベリア域においてもここ数十年森林火災が大規模化する傾向にあります。その理由としては、降水量の変化など人為的な気候変動に起因する要因が関係していると考えられる一方、主要都市から離れた遠隔地域の過疎化や、ロシア国内における連邦政府や自治体の予算の不足による森林管理の不十分さも理由として考えられています。
大規模な森林火災は地球環境にも大きな影響を与えます。樹木等の燃焼からはすすが発生しますが、そのうちの一部は微小粒子状物質(PM2.5)を構成します。PM2.5は人間の呼吸器疾患や循環器疾患などの疾病の誘因となることが知られています。森林火災によりシベリアで大量にPM2.5が発生すると、偏西風の風下にあたる日本も含めた東アジア諸国の人々に健康影響に及ぶことが考えられます。また、煙に含まれる液体や固体の様々な粒子(エアロゾル)は総体としては気候に対して冷却効果を持ちます。地球上の様々な地点での気候は互いに連関しているので、例えばシベリア域で発生したエアロゾルも、シベリアの気候に局所的な効果を及ぼすにとどまらず地球上各地の気候に影響を与えることが考えられます。
我々の研究では、MIROC5と呼ばれる気候モデルとSPRINTARSという大気エアロゾルを計算するモデルを使用して、シベリア域での森林火災の増加が気候、大気質、経済に及ぼす複合的な影響を推定しました。今回行った分析は感度実験と呼ばれる種類のもので、これは、ある事象の影響を見るために、その対象とするものをモデル上で変化させてみることで、その影響を定量的に理解するというものです。言い換えると、シベリアの森林火災の状況に関する将来最も起こりそうな状況の予測を行っているというわけではなく、ある種思考実験的に、広く用いられている複数のモデルから合理的に類推される将来影響の規模を見積もっているというものです。
シベリア域の森林火災増加と影響のモデル評価にあたっては、具体的には次のシナリオを設定しています。まず、シベリア域の領域(東経七〇度~一四〇度、北緯四二・五度~七〇度)を定義し、その領域内の森林火災強度が弱い(二〇〇四年の観測値を採用)、強い(二〇〇三年の観測値を採用)、酷く強い(二〇〇三年の二倍)の三つの感度を設定しました。そしてそれぞれの設定に応じ、モデル内で火災(バイオマス燃焼)による大気エアロゾル(黒色・有機炭素及び二酸化硫黄)を排出させ(領域外は二〇〇四年のバイオマス燃焼排出量で統一)、現在(主に二〇〇五年)及び近未来(二〇三〇年)の気候の条件下で評価計算を行いました。
経済影響については次の方法で定量評価を行っています。まず、大規模森林火災を起因として人々が曝露するPM2.5が関連疾患による死亡率をどれだけ増加させるかについて、公衆衛生分野のデータを基にした統計モデル(疫学モデル)を用いて計算をしました。そしてその数値を、人口集団における死亡数の増加がどれだけの経済損失に換算されうるかについての関係式(「統計的な生命の価値」の算定式)に当てはめて経済量として定量化しています。人命そのものはもちろん金銭に置き換えられうるものではありませんが、現実の社会では、例えば死亡事故に対して賠償額が設定されるなど、人命損失の貨幣換算評価は実際に広く行われており、被害の可視化のための目安とはなります。また、気候変化の経済効果に関する貨幣価値換算については、近年の気候変動の経済学の研究の文献に依拠した、各国における平均気温の年変動と国内総生産(GDP)との統計的な関係性を用いて評価計算を行っています。
我々の論文ではシベリア森林火災の広域的な大気質と気候への影響について詳述していますが、ここでは私が主に関わった経済評価の結果について紹介します。シベリアの森林火災に伴う大気質悪化は、広域的に健康被害の増加(早期死亡者の増加)をもたらし、これは大きな経済的損失に相当することが推定されました。具体的には、現在気候下でのシベリアの火災によるPM2.5の増加は、例えば、中国や日本では、それぞれ年間約六七、〇〇〇人と約二二、〇〇〇人の死亡数増加を引き起こすことが推定され、これらは約五一〇億米ドルと約八四〇億米ドルの経済的損失に相当することが分かりました(図)。ただ、本研究は上述のように感度実験を行っているものであり、実際にこれらの数字で示される通りの経済影響が将来生じるとか、現在生じているということではないことに留意が必要です。また、これとは別の分析結果として、エアロゾル排出を通じた気候変化の経済影響についても顕著であることがわかりました。具体的には、現在の気候条件を仮定した場合、シベリアの森林火災から生じる大気エアロゾルによる冷却効果が低緯度国(例えば中国、アメリカ、日本)に経済的利益をもたらす可能性があるのに対し、高緯度国(例えばロシアやカナダ)では経済的損失が生じるという分析結果が得られています。

(森林火災強度の異なる二つのシナリオの計算結果の差分)
今回の分析では経済分析としてPM2.5増加による死亡率上昇の効果と平均気温変化のGDPへの影響のみを考慮しています。しかし、例えば死亡に結びつかない疾病の増加や、森林火災が生態系に及ぼす被害を通じた経済統計指標には表れない人間の生活への影響など、今回の分析では対象としなかった経済影響もあります。今回の研究結果が示すように、シベリアの森林火災の動態は日本の環境質や社会・経済への影響も大きく、そのメカニズムや広域影響について、社会経済面も含めた今後のさらなる研究が必要です。
(国際環境学教育機構/PEAK前期)
〇関連情報
【研究成果】シベリア森林火災の大気質・気候・経済への包括的な影響を現在及び近未来気候条件の感度実験から初めて評価~森林火災による大気エアロゾルは気候、人の健康から経済にまで影響を与える~
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/news/topics/20240424220000.html
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