教養学部報
第658号
<本の棚> 鈴木啓之 編『ガザ紛争』
二井彬緒
鈴木啓之先生が所属する中東地域研究センター(UTCMES)と、私が所属する「人間の安全保障」プログラム(HSP)は同じ棟の同じ階にあり、鈴木先生とは「ご近所さん」である。昨年秋から、廊下でする他愛のない世間話が、パレスチナ・イスラエルの話へと変わった。
昨年以降、多くの書籍や記事が出た。その中で『ガザ紛争』は二〇〇〇年代後半〜二〇二三年の情報がまとまった稀有な書籍だろう。社会科学分野の一線で活躍する執筆陣によるこの本は、高度にアカデミックな内容ながら、複雑に絡まり合う情報を整理していてとても読みやすい。序〜四章(順に池内恵・鈴木・錦田愛子・保井啓志・山本健介)では、10.7までの歴史的経緯、それ以降の紛争状況、イスラエルの内政と世論、パレスチナの状況を論じている。五〜七章・十章(今井宏平・堀拔功二・三牧聖子・酒井啓子)は今回の紛争をめぐる中東、トルコ、アメリカ、日本の動向をまとめており、パレスチナへの攻撃がグローバルな構造的暴力のもとで進行していることを浮き彫りにしている。そして八・九章(新井京・江﨑智絵)は国際法から見た紛争、また国連の対応を論じている。
本書を自らの関心に引きつけて読んだ時、こうした議論と思想研究との接続点は「パレスチナ占領政策はいかなる権力の論理のもとで行われているのか」という点にあるように思う。例えば九章の国連について、昨年以前にも目を向ければ、国連の成立には大戦以前の帝国の為政者らが関わっており、現在の世界秩序が帝国支配の地続きにあることが指摘されてきている(M ・マゾワー)。またイスラエルの攻撃によって、これまで一〇〇名を超える国連職員が亡くなっている。一九四八年、国連調停官ベルナドッテが過激派シオニストによって殺害されたことを非難した、H・アーレントの記事が思い起こされる。
八章をはじめ執筆者の多くが共通して、イスラエルによる報復正当化の政治的論理を指摘していた。ガラント国防相の「われわれは人間動物と戦っている」という発言が見せる戦争観は、保井の分析(『現代思想』二〇二四年二月号掲載)が詳しいとともに、G・シャマユーの議論ともぴたりと一致する(『人間狩り』『ドローンの哲学』)。「標的に対する精度を高める」ためAIやドローンを使い、相手を対等な存在ではなく動物とみなし暴力を正当化する。この論理は個々の身体を欠損させる生政治的な権力を含みこむ。そしてこの暴力は、国際法をある種、武器として利用するため、法的なレベルでも正当化されてしまう。
この正当化の論理により攻撃が続き、住民が淘汰され、医療インフラが停止し、妊産婦のほとんどが安全な環境で出産を迎えられない。これはパレスチナ人口減少を通しイスラエル側の人口数上のヘゲモニーを維持しようとする、リプロダクティブ・ポリティクスではないか(『現代思想』二〇二四年二月号掲載の鵜飼哲による論文を参照)。考えるだけでも恐ろしいが、仮にパレスチナ人がいなくなってしまったら、国民に対しては「リベラル」なイスラエルはその時初めて「中東の民主主義国家」を実現するのだろうか(『世界』二〇二二年十二月号掲載の鶴見太郎による論文も参考にされたい)。
七章ではガザ紛争を黙認するアメリカのダブルスタンダードが批判されている。国際秩序を重視するアメリカの、イスラエルに対する両義的な姿勢は、とりわけ「哀悼不可能性」の議論―現代の戦争において哀悼する対象が人種主義的に選別されているとした指摘―に象徴されるように、J・バトラーも長年批判してきた(『戦争の枠組』『生のあやうさ』ほか)。この章の執筆者・三牧は別の書籍でこの紛争における欧米中心的なホワイト・フェミニズムの問題も指摘しており、重要な議論である。
「中東唯一の民主主義国家」を標榜する国家が国際法を無視し、それを欧米も黙認してしまう。9.11を発端にアメリカは世界秩序のためと言いながら、「対テロ戦争」としてアフガン・イラクに国際法を無視した攻撃を繰り返した。これを批判したのはJ・デリダだった(『ならず者たち』)。本書全体が問題視しているのは、パレスチナから見える国際秩序の深い裂け目、暴力/権力の様相だ。
また十月七日がやってきた。着任してすぐ、鈴木先生・木村風雅先生のお声かけで同階の各研究センターの方々と給湯室の良識ある使い方を協議したあの日が懐かしい。時間は巻き戻せない。「川から海まで、パレスチナに自由を」。もちろんそうだ、でもそれでも足りない。パレスチナからスーダン、ミャンマー、沖縄、アイヌまで・・・・・・世界に偏在する、すべての裂け目の場所に自由を。
(広域システム科学/「人間の安全保障」プログラム)
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