HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報659号(2024年12月 2日)

教養学部報

第659号 外部公開

いま改めて駒場の教養を問う シンポジウム「駒場の教養を問う──30年後のよりよき世界へ」について

石井 剛

 二〇二〇年三月、新型コロナウィルス感染症の流行により、教養学部は新学期授業のオンライン化を決めた。この決定は正しかったが、キャンパスを一時的に失うことで、駒場は教養の府として大切な何かを失った。パンデミックは去り、キャンパスには賑わいがもどった。ただ、あの時以来ずっと息苦しさに喘ぎ続けているという危機感は消えない。

 ある意味、駒場は危機を繰り返してきた。試みに一九八八年の教養学部報を繙けば、「教養学部を考える」という連載コラムでも駒場の危機が叫ばれている。わたしたちは時代の変遷と共に訪れる危機を前に、教養とは何かを繰り返し問わざるを得ない存在なのだ。そうしてわたしたちは生きている。

 生きている証は呼吸だ。しかし、喘ぐことは単なる呼吸ではない。それは生命の危険を予示する。問うことが呼吸なら、わたしたちが喘いでいるのは、問いが共有されている感覚が薄れているからにちがいない。呼吸とは魂のことだ。わたしたちは駒場の魂を共に育んでいる。もう一度、互いの呼吸を合わせようではないか。こうして九月二十日のシンポジウム「駒場の教養を問う─30年後のよりよき世界へ」が企画された。自薦他薦で九名もの教員(田村隆、張政遠、福島孝治、王欽、酒井邦嘉、國分功一郎、高橋英海、四本裕子、梶谷真司─登壇順、敬称略。福島さんは当日欠席)が呼応してくださった。全員きわめて多忙な皆さんだ。開催までに何度も日程を調整した。感謝の念は尽きない。

 ここでは、そのうち三名の登壇者に議論を振り返ってもらった。当日の模様は、趣旨説明と開催報告がウェブ上に掲載されている。「駒場の教養を問う」で検索していただきたい。なお、今回の記事掲載に当たってどうしても述べたいことが一つある。それは、わたしたちは自分たちの社会を自分たちで変革していくための技法を具体的に身につけていくべきだということだ。いま教養について皆で考えることの意義はここに尽きる。

(地域文化研究/中国語)

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