HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報659号(2024年12月 2日)

教養学部報

第659号 外部公開

教養を「表す」人間力 〜闘う教養、AIを使わない力〜

酒井邦嘉

 真の教養は、通説や偏見に打ち克つほどの知性であり、時には闘いも辞さない力を持つ。現行のAIは人間の脳と比較にならないほどゆがんだ技術である。それゆえ教養を「表す」人間力を培うのは、「AIを使いこなす力」ではなく「AIを使わない力」である。

 ChatGPTなどは「生成AI」と言われるが、非文法的列も含めて大量に合成するだけなので、「生成」ではなく単なる「合成」にすぎない。また、相手の心や意図を全く推理・想定しないから、「対話型」ではなく「対話風」と言わねばならない。そして、範疇に属さないものも退けられずに「何でもあり」だから、「創造」と見なすことも大きな誤解なのだ。

 AIは、文や文章の「構造」すら使っておらず、演繹的な推論は不可能であるから、言語コーパスなどのビッグデータからの「帰納」は、誤りを犯す危険性が高い。たとえ日常的な「会話」であろうとも、「心 → 言語」という言語化と「言語 → 心」という解釈の両方が正しく行われなくては、成り立たないのである。

 AIは言わば人間の行動データを分析する「宇宙人」にすぎず、人間という異質な存在に対して親切で友好的にふるまうとは限らない。ホーキングが指摘したように(二〇一七年)、われわれは「AIに無視され妨げられるか、もしくは破壊されてしまう」かもしれない。

 プラトン著『国家』(紀元前三七五年頃)に描かれた「洞窟の比喩」は、現代においても象徴的である。洞窟内に捕らわれた囚人が見聞きする世界はゆがんだ現実であり、AIに踊らされた一般人と重なる。そこから解放された人のみが真実(イデア)を知り得て哲学者になれるが、真実を囚人に伝えることは難しい。この比喩に続く一節を引用しよう。

 「そもそも教育・・というものは、ある人々が世に宣言しながら主張しているような、そんなものではないということだ。[中略]ひとりひとりの人間がもっているそのような〔原註=真理を知るための〕機能と各人がそれによって学び知るところの器官[引用者註=知性]とは、はじめから魂[心]のなかに内在しているのであって、[中略]教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け変え・・・・の技術にほかならないということになるだろう」(『国家(下)』藤沢令夫訳、岩波文庫pp.115-116)

 言語学者のフンボルトもまた、「各個人にとって学習とは大部分が再生・再創造の問題、つまり心の内にある生得的なものを引き出すという問題である」と明快に述べていた(一八三六年)。人間の脳に内在している創造力の源を引き出すことこそが、真の教養や教育なのである。

 白紙の状態の心に知識を入れてやるという経験論のドグマと、それに基づいて機械化されたAIは、人間の自由な思考や創造の価値を破壊する危険性が高い。その根拠については、近著『デジタル脳クライシス』(朝日新書)をお読みいただきたい。

(相関基礎科学/物理)

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