HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報659号(2024年12月 2日)

教養学部報

第659号 外部公開

<本の棚> 土屋和代・井坂理穂 編『インターセクショナリティ──現代世界を織りなす力学』

前島志保

image659-2-2.png 本書は、二〇二三年六月二十四日に開催されたシンポジウムの発表をもとに編まれたものである。

 「流行りの概念の解説と応用例集」を期待した読者は、裏切られることだろう。

 もちろん、本書には、この概念の成立・展開とその背景の説明も示されている。「インターセクショナリティ(交差性)」とは、諸カテゴリーが「それぞれ別個にではなく、相互に関係し、人びとの経験を形づくっていることを示す概念=分析枠組み」であり、もともとは、法学者で活動家のキンバリー・クレンショーが、フェミニスト理論と反人種差別闘争の双方において黒人女性の経験が周縁化されてきたことを指摘する際に用いた概念であった(9頁)。現在ではこの概念は、人種、ジェンダーだけでなく、階級、セクシュアリティ、国籍、世代など、様々なカテゴリーにまつわる、複合的で複雑な故に見えにくくなっている差別のあり様を浮かび上がらせる重要な分析枠組みとなっている。

 しかし、本書はそれに止まらず、この概念/分析枠組みの問題点にも切り込んでいく。その目指すところは、アメリカの黒人および他の有色女性の経験を超えて学知の場でこの概念/分析枠組みを用いることで、「何が明らかになるのか、あるいはこの概念のどのような課題が浮かび上がるのかを考え」ることにある(16頁)。

 「インターセクショナリティ」は、これまで見えにくかったことや見えなくなっていたことを可視化し、説明が困難だった事柄の理解を助けてくれる。それまで見過ごされていた(あるいは不明瞭だった)社会問題が明確に認識されるようになり、その解決に向けた具体的な動きや人々の相互連帯につながることもあれば、文学作品や映画に描かれた(あるいは描かれなかった)複数の交差する権力関係の様相や抑圧状況をあぶりだし、新たな読みと世界認識をもたらすこともある。この概念/分析枠組みによる様々な事例の考察と交互作用効果の適用を通して、交差の様相が「和」ではなく「積」であることも明らかになってきた。

 それはまた、抽象化によって、これまで各地域・時代・領域内で個別に論じられてきた事柄を、同じ問題をはらむものとしてともに考える可能性をももたらしてくれる。理論化の利点は、所収論考の扱う事例が時代的にも地域的にも分野的にも多岐にわたり(現代のアメリカのみならず、十九世紀初頭以降のプロイセン、イギリス、フィリピン、日本、インド、中国、中南米、イスラエル/パレスチナ、フランスの、文学や映画から思想、社会運動、司法言説、メディアの言説、統計データまで!)、しかも問題意識が相互に共有され、単なる羅列に終わっていないことからも、了解されよう。

 しかしそれは、理論化の常として、新たな疑問や問題も生む。交差の現れ方は、一人の人間、あるいは一つの集団においても、状況によって変化するものではないだろうか。インターセクショナリティは社会運動と密接に結びついている概念/分析枠組みだが、実際の社会運動や個人の日常のふるまいでは、状況に応じて「単一争点」や「戦略的本質主義」が採用される場合もある。これをどう考えたらよいのか。差違に丁寧な目配りをするあまり、カテゴリーの無限の細分化と終わりなき権利の主張に帰結し、かえって排他的・抑圧的な傾向を強め、分断をもたらしてしまう可能性はないだろうか。あるいは逆に、この概念が都合のよい「ダイバーシティ・マネージメント」の道具になってしまってはいないだろうか。安易な包摂にも排除にも回収されない形での他者との共生は、いかに可能なのだろうか。

 何より、この概念/分析枠組みを普遍的なものとして扱うこと自体、グローバルなアカデミアにおける不均衡な権力関係を助長することにつながりはしまいか。差別や抑圧が複合的な要素の交差として立ち現れるという点については、これまでもそれぞれの地域で指摘されてきた。「欧米/西洋」の事例に基づいて発達した概念/分析枠組みが普遍的な「理論」として学問の世界で遇される一方で、「非欧米/非西洋」はその理論を応用・適用する事例を提供するだけの存在にされてしまうという現象は、多くの研究者が目の当たりにしてきたことだろう。「インターセクショナリティ」もまたその一例なのではないか。

 こういった様々な疑問や問題点を、本書収録の論考は不問に付さない。それもそのはず、「あとがき」によれば、そもそも本書のもとになったシンポジウムは、この概念/分析枠組みへの疑問に端を発するやりとりから出発したものだという。本書は、さらなる対話や議論、考察のきっかけを読者に与えてくれるに違いない。

(超域文化科学/PEAK前期)

第659号一覧へ戻る  教養学部報TOPへ戻る

無断での転載、転用、複写を禁じます。

総合情報