HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報659号(2024年12月 2日)

教養学部報

第659号 外部公開

哲学の有用性をめぐって

梶谷真司

 近年「哲学プラクティス」という、哲学を社会の中で実践的に活用していく動きが出てきている。その中でも最も大きな話題となっているのは、グーグルやアップルのように、企業内哲学者(in-house philosopher)を雇用する会社の登場であろう。同様の会社が、日本にも少なくとも一社ある。哲学をコンテンツとするコンサル会社は欧米ではかなりあって、日本にも少なくとも三社ある。

 これまで役に立たない=お金にならない学問の代名詞であった哲学が資本主義のど真ん中に入り込んだため、関係者はにわかに色めきだっている。大いに喜ぶ人もいれば、うさん臭く警戒する人、それどころか嫌悪する人もいるだろう。ただし、どう反応するにせよ、哲学の有用性について、改めて考えてみたほうがいい。

 実は「哲学は役に立つのか?」という問い方は、根本的に不毛である。「役に立たないからいらない」という不要論がある一方で、「役に立たなくていい」「役に立つものだけが重要なわけではない」と有用性じたいを否定し、それ自体に価値を見出す立場がある。あるいは「役に立つ」という言葉の意味を問い、「より広い意味で役に立つ」と言う人もいる。こうした議論は、ずっと昔から続いているが、幾重にも不毛である。

 まず「哲学」を一般的に語る不毛さがある。哲学には明らかに役に立ちやすいのとそうでないのがある。(応用)倫理学は、現実に様々なところで倫理的な問題が起きるので、そこに何らかの対応が必要な時に求められる。次に論理学、言語哲学、知識論などは、コンピューターサイエンスの基礎にあり、人工知能の開発においても大きな役割を果たしている。それに比べると、中世哲学、ドイツ観念論、実存主義など、すでに古典となっている哲学や哲学史の研究は、少なくとも直接役に立つわけではない。だから哲学一般について有用性を語るのは、議論を混乱させるだけである。

 さらに不毛なのは、個々人の研究と哲学全体を同一視する態度である。それは特に、「哲学なんて研究して、何か意味あるの?」という、哲学を研究することへの疑問に答える時に出てきやすい。それに対して例えば、「カントの平和論は、国際連盟設立の理念を提供した」とか「哲学は批判的思考の育成に役立つ」と言っても、それは哲学や哲学者についての一般論であって、聞かれているのはそういうことではない。その人自身の研究に意味があるかどうかである。自分のことを棚に上げて、哲学が役に立った有名な事例を挙げても、その人の哲学研究が意味あるものになるわけではない。まったく別の問題である。

 さて、次に哲学プラクティスである。先に述べたような企業コンサルはインパクトは強いが、むしろ例外的なもので、社会の中でより広く実践されているのは、学校、とりわけ初等中等教育で実践される「子どものための哲学(Philosophy for Children:P4C)、市井の人たちが集まって行う哲学カフェである。そこでは、哲学者の難解な思想を教えたり理解したりするのではなく、対話を通して考えるという方法がとられる。日本ではそこにフォーカスが当てられ、「哲学対話」という言葉がよく使われ、昨今、学校や幼稚園などの教育現場、会社や役所などの組織、地域コミュニティなどで注目されている。

 哲学対話は、十~十五人くらいで一緒に一つのテーマについて考えるもので、子どもから大人まで、世代や性別、職業や社会的身分の差を超えて、多様な人たちが参加できる。対話を通して、他者、自分と異なる考え方に出会い、自分自身がもっていたバイアスや前提に気づく。そうして自分や世界についての考え方が広がったり深まったりする。その結果、物事を深く考えるようになったり、人の話をよく聞くようになったり、自分と異なる考えや価値観の人を受け止めやすくなったりする。だから、コミュニティづくりや組織作りに役立つ。また自分で考えるようになるので、自発的・主体的な行動に結びつくこともある。

 このように哲学対話は、様々なところで実践され、いろいろな効果がある。ただし、だからと言って、「役に立つ」とは一概には言えない。私自身、学校や企業、地域コミュニティなど、いろんなところで対話を実践し、導入に協力してきたが、結局定着して効果があったところとそうでなかったところがある。違いは何かと言うと、哲学対話を生かせるコンテクストや〝スピリット〟が備わっているかどうかである。別の言い方をすれば、その組織やコミュニティの特徴や目的、物事のやり方などと、整合性が取れるかどうかである。そのために、どんな組織であれ、うまくいくところは、一緒に考えながら協力して作っていく。その過程で対話をしたり、リサーチをしたりすることじたいが哲学の実践となる。それがなければ、お互いがどんなに強く望んでも、哲学はそこでたんなる異物になってしまう。

 要するに、役立つように使わなければ役立たないのだ。逆に役立つように使うのであれば、そこであらためて「哲学は役に立つか」ということは、問われることもない。役に立つのが当たり前だからである。

(超域文化科学/ドイツ語)

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