教養学部報
第660号
現代のノーベル物理学賞の意味
池上高志
二〇二四年のノーベル物理学賞がジョン・ホップフィールド氏とジェフリー・ヒントン氏に授与されたことは、科学界における重要な転換点を象徴する出来事である。ニューラルネットワーク研究の礎を築いた両氏の業績は、物理学、人工知能(AI)、そして学際的な科学の可能性を再評価する契機となった。特にヒントン氏の研究は、現在の深層学習(Deep Learning)という大きなパラダイムシフトに直結しており、その影響力は計り知れない。
ホップフィールド氏の一九八二年の論文は、連想記憶をエネルギー最小化モデルとして提案し、統計力学の手法を用いた情報処理の可能性を示した。このアプローチは、AI研究に物理学的視点を持ち込むきっかけとなり、多くの研究者に影響を与えた。私自身も、研究者としての第一歩をホップフィールド氏のモデル化から始めた経緯がある。
一方でヒントン氏は深層学習の父と称される存在であり、二〇一八年にはコンピュータ科学の最高栄誉であるチューリング賞も受賞している。彼の研究は、ボルツマンマシンや階層型ニューラルネットワークの枠組みに始まり、生成型AIや大規模言語モデル(LLM)など現代のAI技術の基盤を築いたものである。彼の提案した誤差逆伝播法(Backpropagation)や過学習を防ぐための技術であるドロップアウト(Dropout)は、ニューラルネットワークの重要な基礎技術となった。しかし、本質的な功績は「とてつもなく大きなネットワークを考える」という視点を提示したことにある。かつてノーベル物理学賞を受賞したP・W・アンダーソンが述べたように、"More is different"という原理がここでも当てはまるのである。現在のLLMが500B(五千億)のパラメーターを持つ規模に達していることを考えると、その視座がいかに重要であったかが理解できる。
ところで日本には、ホップフィールド氏やヒントン氏に先行した研究者がいる。甘利俊一氏は、ホップフィールド氏に先んじて連想記憶のモデル化を提案し、福島邦彦氏はヒントン氏に先駆けて階層型モデルを構築するネオコグニトロンを発表している。これらの研究は今回のノーベル賞に含まれるべき業績であったが、残念ながら受賞には至らなかった。このことは、いつもながらノーベル賞が必ずしも受賞対象の全貌を正確に評価するものではないことを示している。
AIはもともとトップダウン的にシンボル操作によって認知現象を扱うものであり、「考える」機械を作るという試みであった。それに対し、ボトムアップのニューラルネットワークは全く逆の考え方に基づいている。現在では、AIといえばニューラルネットワークのことであり、巷では何でもAIと呼ばれる時代になったが、それはおかしなことである。Deep Neural Networkを機にAIがボトムアップ的な視点を採用し始めたことで、それが物理学の一部になったと考えることもできる。今回の受賞に対し「なぜ物理学賞なのか」という疑問を抱いた人も多かっただろう。だが、物理学者が「これは物理学か否か」という議論を繰り返すことには、もはや大きな意味がない。ホップフィールド氏とヒントン氏の研究が示しているのは、科学の枠組みを超えた知の融合の重要性にほかならない。二〇二一年にノーベル物理学賞を受賞したジョルジョ・パリジ氏の研究もまた、領域を超えた複雑系の研究であった。物理学とは、伝統芸能ではなく、知的越境のための装備である。この本質を見失ってはならない。
先週、私はローマにあるSonyCSL(コンピュータ・サイエンス・ラボ)を訪れる機会があった。この施設は、イタリア内務省の建物内にあるフェルミ・ミュージアムの上階に位置している。フェルミ・ミュージアムの展示は実に見事であった。特に、水中での中性子連鎖反応を三次元グラフィックで表現した展示や、フェルミの計算ノートには深く感銘を受けた。二十世紀前半の栄光に満ちた物理学の雰囲気に触れ、フェルミがうつむき加減でノートに計算を書き込む姿を写真で見たときに、言葉では言い尽くせない感動を覚えた。
このミュージアムからは、科学を文化として後世に伝えようとするイタリアの強い意志を感じた。一方で、日本にはこのような心意気がまだ残っているだろうか。ノーベル賞は科学の業績を顕彰する重要な制度であるが、私はこのミュージアム訪問を通じて、科学を大切にする国の姿勢こそが何よりも重要であると再認識した。ノーベル賞は科学の成果の表層部分にすぎず、その奥には国や研究機関が科学を支えるための土台が存在する。このような基盤がなければ、物理学もAIも進化を遂げることはできなかったであろう。
結論としてホップフィールド氏とヒントン氏のノーベル物理学賞受賞は、科学が分野を超えて融合する時代の象徴的な出来事である。彼らの研究は物理学、AI、さらには広範な学問領域の進歩に寄与した。フェルミ・ミュージアムでの感動を思い返すと、科学の価値はノーベル賞という形で評価されるだけではなく、それを支える文化的な基盤にもあることを痛感する。科学が未来を切り開く力を持つのは、それが人間の好奇心と探究心の結晶であるからである。この受賞が科学の重要性を再認識し、それを支える環境整備につながることを願ってやまない。
(広域システム科学/物理)
〇関連情報
フェルミ・ミュージアム
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