教養学部報
第660号
<送る言葉> 乳酸おじさん
高橋祐美子
八田秀雄と言えば乳酸。乳酸と言えば八田秀雄。この認識は、青地に黄色い文字のスライドが特徴の「身体運動科学」の履修者だけのものではないだろう。ちなみに、タイトルはSNSで偶然見つけた、「身体運動科学」の履修者と思しき人が先生を称した言葉から拝借した。
先生は乳酸に関連する研究を四十年間続けた。運動時の疲労の原因と長らく言われてきた乳酸だが、先生はミトコンドリアで酸化されてATP産生に利用されるエネルギー源であることに着目し、運動時の乳酸代謝に関する研究に取り組まれた。近年ではトレーニング適応を促すシグナルとしての乳酸の役割に着目した研究もされた。その間、題名に「乳酸」と付く書籍を九冊出された。最初の書籍は一九九七年。スポーツ中継では「乳酸が溜まって脚が止まってきた!」、商品の宣伝では「疲労の素の乳酸の除去に効く!」などの言葉が溢れていた頃だ。近年このような表現が減ってきたのは、先生が書籍を通じて研究者以外にもわかりやすく乳酸の役割について解説し、認識を変えていったことが貢献しているだろう。
二〇二四年夏の「身体運動科学」の最終授業で、先生は「もっと大きな研究成果を残せたのではないかと思う部分もある」という趣旨のことをおっしゃっていた。しかし、先生は疲労物質とみなされてきた乳酸の見方を変える研究成果を残した。その成果をもとに、多くの運動・スポーツ愛好者の認識を変容させた。さらに、先生のもとではスポーツ科学分野を担う人材が多数育った。先生は学士を四名、修士を三十五名、博士を十名輩出された(現在学位論文執筆中の院生もいる)。二〇二四年秋現在、アカデミアで活躍中の卒業生も十名以上いる。そこで思い浮かぶのは「人を残すは一流」という言葉。大の巨人ファンである先生に対し、巨人を苦しめた側の野村克也氏の座右として有名な言葉を借りて恐縮だが、研究成果をもとに多くの人に影響を与え、また、多くの研究者を残した先生が一流であることは明白だろう。
一方、多くの方にとって、先生のイメージは「気さくなおじさん」かと思われる。院生室に現れては、陸上競技やプロ野球、芸能ゴシップなど雑談をして帰っていく。実技授業の教員の控室でも同じ調子である。また、部会外の教職員の方との交遊も広く、○○さんはフィギュアスケートの□□選手の大ファンだ、△△さんは競馬好き仲間だ、といった話を先生から聞くことが多々あった。学会に行っても、(先生をご存知なら誰でも物真似が出来るであろう)「へっへっ」と笑いながら右手を上げ、多くの人と言葉を交わす。国際学会でも。この気さくさが研究・教育における肝要かもと、自分自身も教員になった今、思う。一方、教え子としても、身体部会の教員としても、先生が言うべき時に言うべきことをしっかり言う姿も見てきた。その絶妙なさじ加減も、先生のポイントの一つだろう。
結論。先生はただの乳酸おじさんではない。多くの人を残した「一流の乳酸おじさん」だ。
(生命環境科学/スポーツ・身体運動)
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