HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報660号(2025年1月 7日)

教養学部報

第660号 外部公開

<駒場をあとに> 無為に過ぎ去った30余年、猫たちとの日々

森 政稔

image660-4-1.png 一九九二年に社会思想史教室(当時)の助教授として着任した私は、当初駒場キャンパスにはあまり馴染めなかった。その前に筑波大学の広大なキャンパスにいたこともあって、駒場キャンパスの狭さを窮屈に感じた。それに着任時に入った研究室の机や椅子の並びは私にとって使いにくいもので、いつか並び替えようと切に思っていたのだが、そのまま書類が蓄積して容易に動かせなくなってしまった。こんなに長くいることになるとは当時考えなかったのだが、研究室内の配置さえ変えないうちに退職の日が近づいてきた。

 そんな調子だから、私の駒場での生活は基本無為のままに過ぎていった気がする。研究でもしたいことはいっぱいあったはずだが、実現したのはわずかだった。現代社会に生きる基本的な能力(語学、IT、行政能力)に欠ける私は、幸運にも学内の要職や面倒な任務に当たらずに過ごしてきた。優秀なゆえに貴重な研究の時間を学内の仕事に費やした同僚の方々には感謝しかない。ただ要領が悪いせいで、私はたいした仕事をしていないのにいつも時間に追われる気分がしていた。とくに同僚が病気で亡くなったりして社会思想史を一人で支えることになった時期はそれなりに多忙だった。そのためもあって多くの大学院生を抱えたが、これらの若い方々が優秀で、今では各地の大学で研究者などとして活躍している。こんな私でも駒場に勤めて少しは役に立ってよかったかなと思うほとんど唯一の理由である。

 そんな日も残すところわずかになり、名残惜しさがないわけではないが、もともと暇がいちばん好きな私にとって、この四月から死ぬまでの間ずっと休暇、毎日が日曜日だと思うとこれがうれしくないわけがない。

 ところで無為や暇といえば猫なのだが、駒場キャンパスの猫(駒猫)と私の付き合いも長くなった。一時猫が増えすぎて迷惑をおかけしたが、学生の方などのご協力で避妊手術を実施することができ、その後猫の数は減少していった。新型コロナウイルスで入構規制がかかったときに、ほとんど人のいないキャンパスで猫にごはんをあげていた頃がとくに印象に残っている。猫好きで交代して大学に来て、何とかねこのごはんをつなぐことができた。静寂なキャンパスではたぬきの家族も出現し、猫たちとも平和に共生していたようだった。

 猫たちと付き合って観察していると、猫が人間の知らないような抜け道や、夏に涼しい場所、冬に暖かい場所についての知識が豊富であることに驚かされる。このキャンパスの細部をいちばんよく知っているのは猫たちかもしれない。避妊手術を行った後、猫たちも高齢化していったが、老猫には元気な若い猫の無邪気な可愛さとは異なる、人間への深い愛着があって、その魅力をはじめて知ることができた。

 着任当初あまり馴染めなかった駒場キャンパスとの付き合いは、猫やその他の動物、植物を知ることで明らかに変わっていった。たとえば秋まで続く熱帯夜に、妖艶なクラゲのような花を広げるカラスウリや、初夏に咲くクサイチゴ(果実はおいしい)の白い花のような「雑草の花園」、もと農学校ゆえにたぶん日本ではもっともはやい時期に植えられたと思われるヒマラヤスギやプラタナスの数多くの巨木、アドミニ棟のまえには日本では珍しいセコイアまで聳えている。

 駒場キャンパスは前期課程の学生が多く、二年で「卒業」する慌ただしさで、おまけにキャンパス内はいつも工事中、さらに組織やカリキュラムの改編など目に見えない「工事」もいつ終わるともなく続けられている。これは駒場の活力を示すもので悪いことではないのだけれど、このような動きの激しい時間の背後に、変化の遅い時間、めぐる季節とともに繰り返される時間など、異質な時間が横たわっていることを感じる。そのような駒場の魅力がようやくわかりかけてきたときには、私は歳をとり、もうキャンパスとのお別れの時間も近づいてきた。これからも駒場キャンパスを支えるすべての方々のご多幸をお祈りしたい。

追伸
 私たちが世話してきた駒場キャンパスの猫の最後の一匹、お母さん猫のミレちゃんが十八年半も生きて、二〇二四年十一月にどうやら亡くなったようです(衰弱したあと行方不明)。ミレちゃんは子や孫、ひ孫に恵まれ、駒猫の家系を作り上げた猫で、出版していただいた『猫と東大。』の表紙モデルにもなりました。野良猫の自由や誇りに満ちた賢い猫でしたが、とくに最後の一年は多くの方から愛され、アイドルのような猫でした。前にいたまみちゃんと並んで、私には忘れがたい猫です。ミレちゃんを愛してくださった教員、職員、学生の方々、守衛さん、清掃員の方々、近くにお住まいの方々にこの場を借りて深くお礼を申し上げます。

(国際社会科学/社会・社会思想史)

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