教養学部報
第660号
<送る言葉> 寺田至先生を送る
小林俊行
現在、私の中で深く根付いているものの多くは、その源を思い出すことができません。例えば、幼少期に自然と身についた言葉や概念について、それを誰から、いつ教えられたのかを覚えていないことが多いのです。そんなことを改めて考えたのは、今の私の研究のテーマのひとつである「無限次元の分岐則」という概念が、実は学生時代に寺田先生から学んだものに繋がっていることに、ふと気づいたからです。
寺田先生は、有限次元の場合の「分岐則」について、普遍的で美しい理論に大きな貢献をされ、修士課程を修了した後、東京大学理学部の助手(現在の助教)として迎えられました。その後、寺田先生は組合せ論にも研究の幅を広げ、さらに深い探求を続けておられます。寺田先生は、懐の深い穏やかな方であり、学生たちからは「寺田先生には質問しやすい」との声をよく耳にします。冒頭に記したように、私自身を振り返ってみると、自分の一部として深く根付いているものの源をたどると、多くのことを寺田先生から、穏やかな空気の中で学んでいたのだと、改めて気づかされるのです。
一九八七年、私は理学部の助手となり、寺田先生と同僚になりました。当時、数学科は本郷にありましたが、毎年一定の期間、都内のある場所で缶詰となり、土日を含む朝から晩までの業務に追われることがありました。夜遅く、疲れ果てて本郷に帰ってから自分自身の研究を始めるのですが、その道すがら、寺田先生は私を誘って、軽食店に連れて行ってくださったり、都心の銭湯に案内してくださったりしました。そこで、数学に限らず、教育やTeX、コンピュータが未来社会に与える影響など、多岐にわたる話題を交わしました。不思議なことに、こうした和やかな会話の中で、昼間の重労働の疲れはすっかり消え、本郷のオフィスに戻ると気分も一新し、夜遅くまで研究に没頭することができました。そして一九九一年には共に昇進し、駒場に赴任しました。
その後、私はアメリカでハーバード大学に招かれ、ボストンに住むことになりました。到着したばかりの頃、以前にMITに留学されていた寺田先生がボストンを再訪され、右も左もわからない私をあちこち案内してくださいました。その温かい思いやりと、上品な英語で流暢に話される姿に、私は深く感銘を受けました。
寺田さんに恩恵を受けた多くの後輩を代表して、心からお礼を申し上げ、ますますの活躍をお祈りします。
(数理科学研究科)
無断での転載、転用、複写を禁じます。