教養学部報
第661号
アジア科五十周年記念の会に際して
谷垣真理子
二〇二四年十一月二十三日、駒場生協の二階ホールでアジア科五十周年記念の会が開催された。当日は駒場祭期間で、模擬店が終了する午後六時から開催された。出席の連絡があったのは、卒業生や現役学生、現役教員と元教員、教務補佐など入れて一一二名であった。当日、関ヶ原で新幹線が立ち往生し、コロナ感染者など若干の欠席者がいたが、参加者は一〇〇名を超えるにぎやかな会となった。
実は「アジア科」は現在存在しない。アジア科は中国語、歴史、漢文、国際関係論の四つの教室が協力して、教養学科アジア分科として一九七四年に発足した。二〇一一年の後期課程改革で、教養学科地域文化研究分科の「アジア・日本研究コース」となった。一九九六年の大学院重点化で日本研究が強化された。二〇〇二年には地域文化研究学科(一九九六年に教養学科が三学科に改組)アジア分科内に韓国朝鮮コースが誕生し、二〇一一年にアジア・日本研究コースから独立した韓国朝鮮研究コースとなった。以下、正確に書き分けると混乱するので、総称として「アジア科」を使う。
なお、『教養学部報』の「アジア科の発足に当たって」を読むと、「アジア科」発足の背景がわかる。教養学科が発足した一九五一年は米占領時代で、ソ連や中国の地域研究をすることを看板に掲げることを東大は遠慮したらしい。記念の会では「中国科」ではなく「アジア科」となった背景も、元教員から語られた。
さて、記念の会のきっかけは、第一回卒業生の今村弘子(富山大学名誉教授)氏の「二〇二三年はアジア科の五十周年よ!」の一言であった。そこから記念の会が開かれるまで、二年が経過し、アジア・日本研究コース主任は岡田泰平氏から大塚修氏へと変わった。準備委員会には新旧のコース主任に、アジア科の卒業生である私と苅谷康太氏が加わった。
コース教員十五名のうち、アジア科出身者はわたしを入れて三名、東大の他学部出身者が四名で、過半数は他大学出身者である。記念の会開催について、同僚が設定したハードルは高かった。出席者が一〇〇名を超えないようであれば、「五十周年記念の会」開催はアジア科にとってマイナスであるという意見が出された。「可能な範囲で声をかける」のであれば、卒業者の間で声をかけられた人と声をかけられなかった人とで不平等が生じてしまうという懸念の声もあった。
その根底にあるのは、出身大学における「同窓会」をめぐる慣行の違いであった。同窓会組織が強い大学では、各学科、ゼミごとに同窓会が存在する。私立大学では、卒業生名簿の管理は事務部が管理するところもあるようだ。他大学出身の同僚は、同窓会組織がないどころか、アジア科の卒業生名簿もないことに唖然とした。
時間だけが経っていく中、二〇二四年四月、事態を打開してくれたのは、現コース主任の大塚修氏であった。アラビア文字の写本を求めて世界を巡る大塚氏は、コース室にあるアジア科の歴代の卒業論文から卒業者名を書き写し、それと教務課に保存された歴代の卒業者の記録を照会した。かくて、数日で四〇〇名を超える「アジア科卒業生」名簿の原型ができあがった。
ここから五十周年記念の会の準備が勢いづいた。前コース主任の岡田泰平氏はアジア科卒業生LINEグループを立ち上げて、卒業生と密に連携を取った。苅谷氏のGoogleフォームは、卒業生の名簿の精緻化と出欠調査の土台となった。今村氏は五月から準備委員会に入り、創立期の卒業生と連絡を取った。コース所属の教員は、卒論を指導した学生との連絡を取った。わたしはアジア科小史や卒業生からの一言など、当日の配布物の作成を担当した。こうして作業は進んでいき、八月には当日実際に働いてくれる卒業生と在校生を含めた準備会が立ち上がった。かくて、出席者数が一〇〇名以上というハードルがクリアーされたのである。
働き方改革の中、余計な作業は省略して作業は進められたが、それでも新旧のコース主任にはLINEグループやメールのチェック、当日の会場の予約や食事の発注管理などにかなりの負担があった。わたしはなぜ、同僚に迷惑をかけてまで記念の会を開催したかったのか。
記念の会はそこが終点ではなく、アジア科同窓会へとつながるものである。同窓会は卒業生の交流のためだけではない。在校生の就職活動にもプラスになる。就職活動を始める前に率直な意見を先輩から聞ければどれだけ有益かわからない。記念の会では早速先輩の某大手新聞社のデスクやIT企業社長が在学生に自らの仕事を語り、在学生からは外資系で働く先輩がいないか、問いかけがあった。
もちろん、卒業生として五十周年を祝いたいという気持ちはあった。わたしの研究テーマは現代香港論と華南研究である。「香港を研究する」ことは、本郷とは異なる新しい発想で学問領域を開拓しようとした駒場の教養学科ではじめて可能になったと思う。
「個性を媒介にして普遍性に迫る」授業も楽しかった。「アジアの歴史」では前半は板垣雄三先生がエドワード・サイードの『オリエンタリズム』を取り上げ、後半は長崎暢子先生がcommunalという用語がインド研究では大切なことを教えてくれた。「アジアの地理と民族」では片倉もとこ先生が教室で砂漠の民ベドウィンのベールを被ってみせてくれた。
記念の会配布資料の「卒業生からの一言」では複数の寄稿者が「自由放任」「多様性」という表現を使い、学生室での交流は「しょうもない」けれど「かけがえのない」ものだったようだ。八名の寄稿者は、大学関係者の他にJICAやJETRO、市議会議員、外務省の領事補、NHKプロデューサー、起業家など多様で、うち二名は理系からの進学者であった。
最後に、記念の会のあと、参加者からは「ぜひこのような集まりを今後もやってほしい」という声が寄せられた。東大本部は同窓生の名簿の管理までは現状ではやっていないようだ。同窓会の中には、新しい卒業生が名簿を更新するという形で名簿を管理している例もある。一卒業生として、記念の会という「財産」を今後上手に活かした形で、アジア科同窓会が発足するのを願ってやまない。
(地域文化研究/中国語)
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