教養学部報
第661号
<駒場をあとに> 「船に乗れ!哲学者よ!」
大石紀一郎
教養学部入学以来長く籍を置いた駒場を離れるにあたり、まずは私を導いた先輩、助けてくれた同僚、支えてくれた事務の方々、そして優れた理解力と疑問によって探求に参加した学生の皆さんに深く感謝したい。けっして社交的とは言えない私が皆さんとの交流を通じて得たものは極めて大きい。
その間に大学院総合文化研究科が成立して重点化され、何度かカリキュラムや組織が改編されて、教員としていくつもの大学を転任したように感じた。近しい同僚の死が相次ぎ鬱状態になったこともあって、自分もまた在職中に倒れるとご迷惑になると思ってきたので今日まで生きながらえたことを何よりも嬉しく思う。
最近ではコロナ禍で授業も会議もオンライン化を余儀なくされ、対面授業が再開された際は学生さんたちの生き生きとした反応に安堵を覚えた一方、ビデオをオフにして自己内部の思考をゆっくりと言葉にして討論することも刺戟的だった。
前期課程ではドイツ語教育を担当し、同僚たちとの長時間の討論を経て最初の共通文法教科書を作成して集合知を言語化する経験をした。その後は国際コミュニケーション科目における実践的練習との関連を意識しながら基礎科目で文法の理論的な解説をめざしたが、性急に日本語に訳して異なる言語間の記号の言い換えを外国語の「意味」だと思い込む傾向が根強いことに疑問を抱き、ドイツ語の性質を日本語で概念的に解説することを心がけた。またかつて自分たちが教わった先生たちの教え方をなぞるのではなく、自分で考えて改善することも試みた。たとえば文法の二つの軸として人称変化と格変化について見通しを与えて授業を進める、助動詞の用法をドイツ語内部での役割分担に即して理解しようとする、否定を動詞表現の否定と補足要素の否定の対比に基づいて説明する、過去と完了という二つの時制の差異を意識させるとともに接続法の表現をこれらの援用という観点から見直す、文頭に主語があるという英語学習によって刷り込まれた思い込みを問題化する、などである。母語でも英語でもない言語を学ぶことが言語や文化・社会を相対化するきっかけとなり、外国語の学び方を学び直すことに資するならば幸いである。
ドイツ統一の直後からカリキュラム外の教育活動として隔年で足かけ二十年ほど実施したドイツ研修旅行は体力的にきつかったが、参加したある学生が「参加費を稼ぐためにアルバイトをすることで授業には出られなかったけれど広く社会というものを知ることができました」という感想を寄せてくれたことは今でも記憶に残っている。世間知らずという点では自分もまったく同じだったが、引率教員として通訳をしながらドイツ社会の諸相に接することができた。その後十数年を経て裁判官となったその元学生はドイツから日本研修に来た学生たちのために裁判所見学の機会を提供してくれた。
私の研究領域は、十九世紀以降のドイツ思想史とその日本における受容、それにドイツ留学中に接した「歴史家論争」を機縁とした現代ドイツの政治文化で、後期課程では比較日本文化論分科とその後成立した現代思想コース、大学院では超域文化科学専攻比較文学比較文化分野でささやかながら研究と教育を結びつける企てを行った。複数の領域を渡り歩くことは皿回しの芸人が落ちそうになった皿のところに駆けつけては新たに回転を与えるようなものだったし、そもそも文科系のほとんど注目されないテーマの研究に携わることはカフカが短編「断食芸人」で描いたように人知れず自分の芸を追求するかのようでもあった。短期間ながら「人間の安全保障」プログラムの運営に関わって駒場内の組織文化の違いにふれたのは貴重な経験となった。
近年は日本語で「歴史」と訳される語がヨーロッパで十八世紀半ばに集合名詞単数として用いられるようになったというコゼレックの指摘から出発して、「歴史」をたんに説得や正当化の材料に利用したり研究の客体として対象化したり現存在の基底に関わるものへと存在論化する「以前」への問いとして、「歴史」とは過去の事象について現在の「われわれ」が語り合うたびに構成されるものであるというところから考察することに取り組んでいる。
現代においては大学の内外を問わず個人も組織も「可謬主義」の意識をもって自らの誤謬や集団内部の思い込みに気づいて修正を試みることが大切だと思う。根拠のある正当化が求められるからこそ自己の主張を補強する材料ばかり求めると固定観念にとらわれて探求の自由が阻害されかねないことにも目を向けるべきではないだろうか。
これまで大学という制度の中で知的探求をしてきたので今後その枠組みに守られない生活に踏み出すことに一抹の不安を覚えないでもない。だが新たな探求への船出は依然として魅力的であり、「船に乗れ!哲学者よ!」というニーチェの促しはこれからも私の脳裏に響きつづけるだろう。たしかに特定の目的地を定めない航海における無限の自由ほど怖ろしいものはない。とはいえノイラートが言語哲学の探求を乗船中に船を改修することに喩えたように、自分の考えやその枠組みをつねに問い直すことを忘れず、これまで探索したことのない海域や潮流の変化に対する好奇心を持ち続けたいものである。
(超域文化科学/ドイツ語)
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