教養学部報
第661号
<駒場をあとに> M.I.「自転車操業を走り抜け!」
廣野喜幸
旧2号館は不思議な建物だった(おぼえがある)。二階の隣の教室に移動するのに、建物の端にある階段を一階まで降り、他端にある階段をまた二階までのぼりなおさなければならなかった。一九七八年三月八日(水)に、その旧2号館の二階の教室で、東京大学の第二次入学試験を受けたのが、駒場Ⅰキャンパスに私が足を踏み入れた最初になる。
爾来、大学生として五年間(私は一年生を二回やっている)、大学院生として七年間(博士課程を修了するのに五年要した)、大学院研究生として三年、教員として二十七年、途中で中学高校や予備校の教師をつとめた五年間を除き、四十二年間駒場に通い続けることになった。いささか長すぎたかもしれない。
12号館で受けた廣松渉先生の理系向け哲学概論の授業からは鮮烈な印象を受けた。ユクスキュルのような生物研究をしたいと思って入学した私だが、教養学科第一の科学史・科学哲学分科(現学際科学科科学技術論コース)に進路を変更した。8号館で最初に受けたのが大森荘蔵先生の哲学の授業である。なんたる面白さ! これ以降、哲学にのめりこむ。
件の旧2号館一階には研究室が並んでいた。哲学熱にもかかわらず、そこに、動物行動学を専攻していた木村武二教授を訪ねたのは、ユクスキュルのような生物研究への思いが燻っていたせいだろう。村上陽一郎先生のご指導のもと、デカルトの動物機械論に関する駄文を卒論と称してしあげたあとは、初志貫徹すべく、一九八三年に理学系研究科相関理化学専攻(後進が総合文化研究科の相関基礎科学系と一部の生命環境科学系である)に進み、木村研に所属することになった。
6号館は現在国際環境学コースの拠点になっているが、かつては研究室と学生用実験室が混在していた。東京都立大学助手から駒場の助教授に異動されたばかりの松本忠夫先生の研究室があったのは、その四階になる。先生は、東南アジアでのシロアリの生産生態学的研究から、社会性昆虫であるシロアリがどうゴキブリから進化したかを追究する社会生物学的研究にチャレンジされだしたところであった。松本先生を実質的な指導教官として仰ぎ、最初の弟子となった私は、こうして、ユクスキュルのような研究ではなく、社会生物学の波に呑み込まれていったのである。そして、時は流れて......。
哲学者の加地大介さん(埼玉大学教授)は教養学科時代のクラスメートだ。氏いわく、「大学への就職は麗しい誤解によって決まる」。麗しい誤解をしてくださる方が現れ、一九九八年、古巣の教員として、ただし今度は生命科学の歴史の研究者として私は駒場に舞い戻り、14号館に暮らしはじめた。
松本先生は基礎科学科第二(概ね今の学際科学科)の教官であった。基礎科学科第二の一期生のみなさんは非常に優秀であった。松本先生の生物学実習を手伝っているうちに、みなさんと知己になった。そのお一人が林裕子さん、つまり今の藤垣裕子副学長である。藤垣さんが二〇〇〇年頃、駒場の教員に着任された。聞けば、科学技術社会論の学会をつくるという。すすめられて、私は創設メンバー(理事)となり、生命科学を対象とした科学技術社会論にも手を伸ばすようになる。ここまでは、まあいい。だが......。
小林康夫さんと早逝した門脇俊介さんが先導したのが、二〇〇二年度に発足した「共生のための国際哲学研究センター」である。麗しき誤解をしてくださった方のご意向で創設メンバーになった。二〇〇五年度には科学技術インタープリター養成プログラムが発足し、創設メンバーになった。黒田玲子先生、佐倉統さん(情報学環)、大島まりさん(生産研)と私が言い出しっぺだったから、いたしかたない。
嶋田正和先生が副研究科長になり、駒場に英語コースを立ち上げるにあたり、国際環境学コースという構想をぶちあげた。恩のある嶋田さん(私の博士課程時代、動物行動・生態研究グループの助手であった)のご下命とあれば、これも断ることは難しい。こうして私は、二〇一〇年あたりの準備室段階から、国際環境学コースの創設メンバーにもなった。あろうことか、教職員組合の委員長も引き受けたことがある。また、コロナの流行前後には流動教員として情報学環に赴いた。生殖医学会の生命倫理委員も十年ほどつとめ、第三者配偶子提供のルールづくりに微力を尽くしたりもした。
「副専攻」を常時複数抱えることになった私は、フォード式工業生産過程よろしく、眼の前に現れるタスクを次々にこなしていく作業に明け暮れることになったのである。タスクをこなさないうちに次のタスクが現れる。しかも、まったく異質なタスクが! 今西錦司さんは「種は変わるべくして変わる」と喝破したが、私の研究は破綻すべくして破綻していったと言えるだろう。
不肖な私が破綻しきらずに(たぶん?)、ここまで勤められたのは、すでに駒場を去った方々をはじめとする教職員のみなさまのお蔭であることは言うまでもない。みなさま、まことにどうもありがとうございました。
(相関基礎科学/哲学・科学史)
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