教養学部報
第661号
<送る言葉> 廣野喜幸先生を送る
岡本拓司
廣野喜幸先生は、現在の学際科学科科学技術論コースがまだ教養学科にあった時期の、科学史・科学哲学分科という名称の、教養学部後期課程の発足当初からあった教室(以下、大学院の課程が出来た以降も通して科哲教室と呼ぶ)で学ばれ、次いで大学院は理学系研究科相関理化学専攻に進まれた。理学系とはいっても研究の場は駒場キャンパスで、大学入学から大学院修了まで駒場で過ごされたことになる。学部で科学史・科学哲学を学んだ後、大学院で他分野に進む例はままあるが、その後、再び教員として学部時代に学んだ場に戻るのは珍しい。ご経歴を反映して、廣野先生は、古い時代の科哲教室、特に、大森荘蔵、伊東俊太郎、廣松渉、村上陽一郎といった先生方の逸話を折に触れて披露された。また、大学院で研究された動物行動学・進化生態学に学問上のよりどころがあったようで、学生の研究を評価する際などには、「サイエンティストから見ると」と前置きされた後で、歴史や哲学とは異なった視点から、問題設定や議論の展開の手がかりを与えられることもあった。
一九九八年から科哲教室で教鞭をとられるようになって以来、所属は情報学環に置かれた時期はあったものの(二〇一八年度から三年間)、廣野先生は一貫して、科学史・科学技術社会論のうち、主に生命・医療に関わる広い領域で、研究と教育に従事された。その間、相関基礎科学系の教務主任や、科哲教室の主任も務められている。
廣野先生といえば、東京大学全学の大学院生向けに科学コミュニケーションを教える副専攻である「科学技術インタープリター養成プログラム」に、その創設以来一貫して関わられたことも語り落とせない。二〇〇五年から文部科学省の科学技術振興調整費によってスタートした同プログラムは、五年後には教養学部附属教養教育高度化機構・科学技術インタープリター養成部門となって駒場に定着した。廣野先生はプログラムの教科書『科学コミュニケーション論』(二〇〇八年)と『科学コミュニケーション論の展開』(二〇二三年)の公刊について、それぞれの編者の一人として中心的役割を果たされたと伺っている。また、二〇一五年度から二〇二三年度まで九年に亘って部門長を務められ、二〇二三年度からの科学技術コミュニケーション部門への改組(教育のみならず研究や発信も強化)を主導された。
ご経歴とご関心を反映して、廣野先生の研究対象は多岐にわたる。上記二書のうち後者では、科学コミュニケーションにおける「垂直モデル」と「水平モデル」を対置したうえで、状況に応じて多様な交流の途を探る「水平モデル」の可能性を提示し、同分野に関わる者に刺激を与えた。また、物理学・生物学など特定の分野の、いわゆる「通史」が編まれなくなった時期に、編者の一人として『生命科学の近現代史』(二〇〇二年)の刊行に尽力され、この分野の指針を示した。死亡リスクを基準として、多様な対象についてリスク論からの評価を展開する『サイエンティフィック・リテラシー―科学技術リスクを考える』(二〇一三年)は、東日本大震災と福島の原子力発電所の事故の二年後に刊行されているが、インフルエンザが検討対象に含まれており、コロナ禍分析の視座がすでに築かれていたようでもある。
多忙な日々のなかで、展開には至らなかった研究の萌芽も、廣野先生は多々抱えておられるようである。ご定年後、それらの開花に存分に時間を費やしていただくことを願って、はなむけの言葉とさせていただく。
(相関基礎科学/哲学・科学史)
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