教養学部報
第661号
学部報の行方7・(学部報)委員会の行方
中井 悠
自分の呼びかけで始まった『学部報の行方』が楽しみで、以前は見向きもしなかった学部報が届くのが待ち遠しくなってきた矢先に、書きたい人が見つからなくなったからこの連載を打ち切るという残念な知らせが届いた。すでに委員長の座にはなく、委員会メンバーですらないので、決定への意見を求められたわけではないが、締めくくるにあたってこれまでの議論を踏まえて発起者の弁を述べてほしいと依頼された。とはいえ、四本先生の問題提起をきっかけとして、五人の投稿者によって交わされた議論を無難にまとめるという野暮は控えようと思う。その代わり、今回の議論の背景にあった別の問題を指摘することで、この先の道すじをすこし立体化しておきたい。この企画を思いついたときに自分が考えていたのは「学部報の存在意義」より以前の問題だったことを思い出したからだ。
学部報の問題を指摘する四本先生に対して、学部報委員長としてはそれを学部報に書いてほしいと返し、それなら書きたいと思いがけない返事をいただいた後、喜んで浮かれていたら、広報・情報企画チームの鈴木由樹子さんから、それは委員会で審議にかけないといけませんね、という冷静なツッコミを受けた。会議を開催しても、ほとんど誰も意見を述べず、委員長だけが延々と独り言を捲し立てて終わるという展開に慣れていたためうっかり忘れていたが、確かにそうなので、いちおう議案としてグループメールに流した。そうすると驚いたことに、これまで対面で一言も発言をされたことがない先生、Zoomのアイコンしか存じ上げない先生、さらには会議に一回も参加したことがない先生まで、さまざまなメンバーから意見が一気に押し寄せてきた。慌てふためきながら、ある疑問が浮かんできた―なぜこうした賛否両論が委員会の中に(でさえ)あることがこれまで可視化されてこなかったのだろうか。答えは簡単で、毎回の集まりのときに委員長の自分だけがずっと話しているからである。とすれば、そのからくり自体を再考する必要があるように思えた。つまり、「学部報」という問題の副産物として、「学部報委員会」という問題が浮かび上がってきたのだ。
誤解を招くといけないので、急いで付け加えておくが、これは自分がこれまで参加した委員会にいつも出席して積極的に議論に加わってきたという自負のもと、不届きな輩は悔い改めよという優等生的な呼びかけでは全くない。むしろ自分が幽霊部員と化す場合も多々ある(阪本先生、ごめんなさい!)。だが委員長になると矢面に立たざるを得ず、そうなると機械的なプロセスに時間を費やすのがバカバカしく感じるので、どうにかしようと考えざるを得ないだけのことだ。その結果、『学部報の行方』のように、自分が面白いと思える仕掛けを施すことで、あたかも自ら望んでその職についたかのように感じられる枠組みを事後的に作り出してきた(それが他人にとって面白いかどうかは、本連載の打ち切りが明かすとおり別問題である)。同じく委員長の座を受け持っているピアノ委員会でも、似たようなことをしてきたから、これは自分の癖なのかもしれない。だが翻って考えると、東京大学の教員は、それぞれの分野で問題の土俵自体の組み替えを行なってきた「枠組み改変」の専門家集団であるはずだ。それにも関わらず、その日常の軸に置かれた委員会だけが、屈折と待機の後ろめたい時間であり続けていいのだろうか。
おそらく問題の根幹にあるのは、平委員であれば黙ってやりすごすことができるから、たとえ時間の無駄だと思っても、そのことを自分が(他のことであれば惜しみなく注ぐであろう)知力や創造力を傾けるべき問題として引き受けないということだろう。あるいは、引き受けたとしても委員の立場でやれることは少ないという事情もあるかもしれない。つまり、《研究》と《そうではない活動》という暗黙の区分に、《委員長》と《そうではない委員》という明確なヒエラルキーが交差することで作り出される隠れ蓑をどうにかしなければならない。学部報委員会に関して言えば、委員の選別はいままで通りでいいと思うし、「委員」と「委員長」という区分自体も作業を進めるために必要だろう。ただし、その立場が固定することを防ぐために、一年を通して委員が代わりばんこで委員長になるのはどうだろうか。その方が、毎号の特性を強く出せるし、そのつどはまばらであっても、全体としてはより多様な読者の関心を引くことができるように思う。また委員会外部から委員長に立候補したり、一号だけ責任編集的なかたちで関われたりする仕組みを作ってもいい。さらに『学部報委員会の行方』という連載を設けて、委員が学部報に関する賛否両論を交わすのはどうだろう。
もちろんこれらの提案自体はおまけのようなもので、本当の問題は「委員会」のあり方が教員生活を規定し、終了後の飲み会などでは話題に上るものの、表立ってそれを議論する場がないことだ―それ以外のことであれば、なんでも議論する「委員会」という当の場も含めて。だがそうしたことを、専門や立場を超えて大っぴらに繰り広げる場として学部報ほど適したメディアはないように思う。しかも、その委員を務めたことがある人なら誰でも知っているように、名ばかりの委員会を実質的に動かしている強固なインフラたる鈴木さんをはじめとする広報・情報企画チームのご尽力のおかげで、毎号すべての教員のメールボックスに律儀に届けられるのだ―たとえ多くの人がそれを読まずに捨てるのだとしても(紙媒体は捨てるという労力を強制するところに―そのとき四本先生が「小さくイラッと」させられるところに―オンラインとは異なる意義がある)。そしてオンラインにしても、教養学部が健在である限りは律儀にアーカイブ化されていくのだ―たとえ多くの人がそれにアクセスしないとしても。この連載もまた、二〇二五年の駒場では読まずに捨てられるだけかもしれない。だが「学部報の存在意義」がこれまで検討されたケースを見つけるためにアーカイブを半世紀前まで遡った元委員長の身からすると、影響が発露するまでしばらく待つことも吝かではない。
(超域文化科学/先進融合)
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