HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報661号(2025年2月 3日)

教養学部報

第661号 外部公開

ゲーテにあやかって 令和6年秋の紫綬褒章を受けて

石原あえか

 「ゲーテが生きていたら、友人になりたいですか」と尋ねられることがある。滅相もない、研究対象としてなら面白い御仁だが、知己を得たら、うっかり者の私は、『対話』の作者エッカーマン同様に老獪な詩人の掌の上で転がされ、只働きさせられるか、失言でもして逆鱗に触れ、小言ならまだしも、お得意の作中で当事者だけがわかる陰険な手法でこき下ろされるか、完全無視されるのが関の山だろう(中年以降の彼のガタガタな口腔状態を拙論で暴露してしまったし)。妹や妻の書簡でさえも読者イメージに悪影響を及ぼすなら躊躇なく焼却する自己演出の達人ゲーテは、自由奔放に見えて、繊細で神経質でもあり、真面目な高級官僚かつ自然研究者だった。研究の切り口は無限だが、かなりの曲者。好敵手として後に親交を深めた劇作家シラーですら、振り向いてもらえるまでにかなりの時間と努力を要したから、作品のみを通した関係が理想的だと思う。

 さて当方、ドイツとも大学関係者とも無縁に育ち、大学入学後、必修第二外国語でドイツ語に出会った。基本の『ヴァイマル版ゲーテ全集』だけで一四四冊もあるとは知らず、うっかり修士論文でドイツ教養小説の鑑『W・マイスターの徒弟時代』を扱って以来、過去二世紀以上の研究成果である基礎文献や研究書が詰まった書架が図書館を圧迫し、さらに増殖中という、お化けのような詩人とその作品研究を専門とする。ちなみに彼の自伝的作品『詩と真実』冒頭では八月二八日正午誕生、〈乙女座〉のホロスコープが描かれるが、十二支では巳年生まれになる。出版者への積年の恨みを、ドイツ語圏初の著作権成立で晴らした執念と手腕が巳年の特性に拠るのかはともかく、ゲーテの魅力のひとつは、蛇が脱皮するが如く、〈再生〉を繰り返し、瑞々しい感性で新しい作品を創造する姿勢にある。

 現在は特に理系の女性研究者支援策が打ち出されているが、人文系もキャリア形成は難しい。私が博士課程に進んだ頃の文学部教授は博士号を持たないのが普通で、日本での学位取得は無理と判断、受入先を自力で見つけて留学したが、「博士論文なぞ書けるものか」が餞別の言葉だった。でも最初から〈背水の陣〉だったから、比較的短期間でやり遂げられたのかも(実は術中に嵌った?)。悔しい・辛いことは山ほどあったはずだが、知識や文化を吸収するので忙しく、研究の楽しさだけが記憶に残る。ケルンでの学位取得が「まぐれ」と言われぬよう、奨学金や研究費を獲得し、ドイツ語で出版を重ねるうちに、心強い味方や親しい同僚も増えた。そしてゲーテ研究のスケールの大きさ・豊かさの虜になった。作家のヘッセも書いているが、私にとってもゲーテは〈好きな詩人〉ではなく、真摯に取り組むべき対象である。

 物理学者の田中舘愛橘は毎年欧州の学会に参加し、〈衛星〉に譬えられたが、同様に日独間をせっせと往復してきた。デジタル公開が進もうと、オリジナルの情報は全く違うもの。だがロシア上空回避で、現在飛行時間は直行便で往復約三〇時間、円安で旅費も嵩む。ゲーテ生家は空港があるフランクフルトだが、私の仕事場は、彼が半世紀以上を過ごした旧東独のヴァイマル。空港駅からスーツケースを引きずって単身、鉄道を乗り継いで行く。そのドイツ国鉄は昨今遅延・変更が日常茶飯事、ヴァイマルを含むテューリンゲン州は極右政党が第一党に躍進、外国人への風当たりが強まる。どこまで気力・体力が続くか不安に思っていた矢先の受章に驚きつつも、これを励みに、ゲーテにあやかって、溌溂と新しい課題に挑戦し続けたい。今後とも宜しくお願いします。

(言語情報科学/ドイツ語)

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