教養学部報
第662号
いま必要な「リテラシー」とはなにか
総長 藤井輝夫
新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます。これからの大学生活を通じて、新しい知識や経験を積み重ね、東京大学の学生として未来の可能性を切り拓いていくことを大いに期待しています。
さてみなさんは、読み書きが十分にできないひとが無視できない数で社会に存在していることをご存知でしょうか。日本は教育水準が高い国ですが、二〇二〇年の国勢調査によれば、一五歳以上の未就学者は約九万四千人、小卒者は約八〇万四千人、合わせて約九〇万人が義務教育を修了していません。さらに、不登校などで中学校を形式的に卒業したが、実質的な基礎学習が保障されていないひとが数十万人から百万人以上いると推計されています。日常生活や経済活動に必要な読み書きに困難を抱えているひとが少なくないのです。
「リテラシー」はもともと文字の読み書き能力を意味しましたが、今ではネットリテラシーやヘルスリテラシーなど、広く特定の主題分野に関する知識を活用する力として使われています。では、大学生活に必要なリテラシーとはどんな能力でしょうか。
たとえば、マイノリティ・リテラシーです。この三〇年でヒト・モノ・カネの流動性が高まり、全国各地で教育を受けたり働いたりする外国人が多くなりました。あるいは、みなさんのなかには、交換留学や語学研修などの海外留学を考えている方もいるかもしれません。修学や仕事で外国に一定期間住むと、さまざまな不便を経験することになります。マイノリティの立場にいる人びとが感じている困難につながるものがあるかもしれません。他者が置かれている状況への配慮は、互いの理解を深めるために大切です。グローバル化と多様性の時代においては、誰もがマイノリティになりうる現実と向きあう必要があります。
私自身も研究のために、人口約三万人のスイスのヌシャテルという小さな町で暮らしたことがあります。研究仲間一〇人ほどでランチに行くと、同じ国や地域から来ているひとはおらず、みんなが「マイノリティ」でした。街ではフランス語が話され、研究の場では英語が共通語でしたが、英語がネイティブのひとはいませんでした。この環境で私はフランス語を英語で教えてもらったり、日本の歴史や文化をうまく説明できないことに気づいたりと、多文化・多言語の環境における貴重な経験をしました。
日本社会での多文化・多言語環境を示唆する『オリーブかあさんのフィリピン民話』という絵本があります。この絵本の語り手は、一九八〇年代後半に山形県が自治体主導で行った国際結婚の「外国人花嫁」として来日したフィリピン国籍の女性です。日本で母となり、会えない我が子に語り聞かせようとしたふるさとの民話が、習い覚えた山形弁で語られ、標準語のルビが振られています。その複雑で複合的な表記に、外国人花嫁の懸命な適応の努力と、経験した離婚という多国籍家族の現実が読みとれます。
AIと向きあう能力も現代社会に必要なリテラシーです。二〇二二年に発表された「ChatGPT」は、専門知識がなくても多様なアウトプットを簡単に得られることで、多くの関心を集めました。みなさんもすでにこの生成AIを活用していると思いますが、その応答に事実に基づかない情報や偏った断定が含まれる危険性を忘れてはなりません。だから、生成AIからの情報や提案を自らの視点や専門知識で検討する力が必要です。またプライバシー保護やバイアスへの対処、ディープフェイク技術の悪用など、倫理的課題もあります。生成AIにはさらなる進展が予想される一方、まだまだ発展途上だとも言えます。たいへんな物知りだけれど検証が必要な、偏屈な対話の相手として捉え、問いの質を高め、批判的思考を持ち続けることが求められます。今後、その活用の仕方を鍛え、発展させることで、新たな視点やメタ認知を向上させる効果を得ることができるかもしれません。
「マイノリティ」や「AI」は、獲得すべきリテラシーの一部の例示にすぎません。東京大学での生活は、新しい知識だけでなく、新しい視点や人びととのつながりをみなさん一人ひとりにもたらしてくれるでしょう。大学生活を通じて、学びはもちろん、困難に立ち向かう力や誰かを支える心を育んでください。ご入学、おめでとうございます。
(東京大学総長)
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