教養学部報
第663号
〈後期課程案内〉法学部 法学的思考と政治学的識見
法学政治学研究科長・法学部長 沖野眞已
平成一九年(二〇〇七年)一二月七日、午後五時四七分頃、認知症にり患していた九一歳の男性(「A」とします)が、JR東海の駅構内の線路に立ち入り、列車に衝突して死亡しました。この事故により、JR東海には、列車の遅延による振替輸送の費用などの損害が生じました。JR東海がこの損害について、Aの配偶者や子どもたちに対して、賠償を求めたのが、JR東海事件です。さて、この請求は認められるでしょうか。Aの家族は責任を負うでしょうか。関連する条文が、民法という法律の七〇九条と七一三条、七一四条です。この事件は最高裁判所まで争われ、一審の名古屋地方裁判所、二審の名古屋高等裁判所、そして三審となる最高裁判所では、それぞれ異なる考え方が取られました。関心のある人は、最高裁平成二八年三月一日判決(最高裁判所民事判例集七〇巻三号六八一頁)をご覧になってください。
この事件について、どう思われたでしょうか。死亡事故であり、Aはむしろ被害者ではないのか、でしょうか。ここでの争いは、Aの死亡・損害をどう考えるのかではなく、JR東海の被った損害を被害者側と加害者側の間でどう分担するのか、また、JR東海の権利や利益がどう保護されるのか、です。そして運行を害され、それにより損害が発生し、Aには「過失」がある以上、民法七〇九条により損害賠償責任が発生します(ちなみに、Aはすでに死亡していて権利を取得し義務を負う立場になく、相続の問題があるのですが、それはまた別の話)。その一方で、Aは、その行為の時において、自分の行為の責任を理解することができない状態にあったため、A本人に責任を問うことができず(「責任能力」がない)、その場合には、Aの周りにいてAの行動を防止することができ、またそうするべきであると判断された人、すなわちAを「監督する法定の義務を負う者」が責任を負うとするのが、七一三条、七一四条の規定です。では、この「法定の義務を負う者」は誰なのか。たとえば、成年後見人が選任されていたら成年後見人がこれに当たるのか。この事案では成年後見人は選任されていませんでしたが、家族がAの世話や介護にあたっていました。事実上Aの監護をしていた人も防止義務を負い責任を負うとこの条文を解釈すべきなのか。熱心に介護をする人ほど重い負担となりかねないのではないか......等々。既存の条文があっても、それを適用する場面において、その解釈として検討すべきことが多々あります。
さらに、現在の規律が現在の社会において適切であるのかという問いも出てきます。Aが資産家であったような場合、被害者が会社ではなく個人で被害に苦しんでいるような場合、どうでしょうか。ある人がその行為によって他の人に損害を与えたとき、加害者に「故意・過失」があるときは被害者に生じた損害を賠償する責任を負う、というのは、損害の原因となった加害者との間でその分担を図るのが公平であると考えられること、かつ、たとえ原因となったとしても「故意・過失」つまり意図的であったとか、行動に要請される注意義務を尽くさなかったというので無い限り、責任を負わないという「過失責任の原則」によって、人の行動の自由を支えています。責任能力がなければその行動の責任を問えないというのは、政策的なその保護でもあります。現行の規定はこのような考え方に立脚していますが、しかし、加害者となる人の行動の保障、被害者となる人の権利・利益の保護と救済、損害の防止・抑止を考えるとき、現行の規律を変える必要はないのか。さらに、認知症や軽度認知障害(MCI)がごく普通に身近な存在になっている中で、Aの行為の関係者間での損害の分担だけでこれを考えるのではなく、保険の制度や補償の制度の導入も考えることになります。
「法学」というと、条文があって記憶からそれを引き出し(「あっ、あの条文だ!」)、機械的に適用するというイメージがもしあるなら、決してそうではないことを示す(示したく)、ごく一つの例をあげました。これは、民事法・不法行為の例ですが、法分野は、憲法、商事法、刑事法、行政法、手続法、社会法、国際法等々さまざまであり、そこでの思考や議論はそれぞれ特徴があるものです。また、他の国ではどうなっているのか、歴史的にはどうか、社会における実態はどうか等々の考察も必要です。基礎法と呼ばれる分野です。そして、これを強調したいのですが、「法学部」の骨格をなすのは、法学と政治学です。人と社会を考える、この両者を軸として学ぶことができ、研究ができるのが、東京大学法学部の特徴であり、強みです。
考え方や価値観の異なる人が集まり、限られた財のもとで、社会を構成している。社会とそこでの人の活動を支えるために不可欠な素養が、法学の思考と政治学の識見です。科学技術の進展や社会の高度化・複雑化に伴い、その意義は日々増していると感じられます。
そのため、ご自身が何を大学レベルでの専門として核を作っていくか、その選択が何であれ、すべての皆さんに、法学と政治学に触れ、できるならその素養を身につけていただきたいと思います。法学部では、一、二年生の皆さんに向けて、「現代と法」「現代と政治」「理系のための法学入門」などを開講していますので、是非覗いてみてください。
(法学部/民法)
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