教養学部報
第663号
〈後期課程案内〉農学部 人間は自然に生かされている
農学生命科学研究科長・農学部長 東原和成
二〇〇一年に公開されたスピルバーグ監督映画「A.I.」をみたことがありますか? 映画に出てくる子供型ロボットは、人間になりたくてほうれん草を食べてしまって壊れてしまいます。ロボットやAIは決して人間にはなれません。人間が人間たるゆえんは、生身の生命体だからです。しかし、毎日の生活で、人間は「生きもの」であることを忘れがちです。ましてや、周りにいる植物たちが私たちに必要な酸素を作り出していることも忘れています。人間は周りにいる生物のことを考えずに、長いこと自分中心な生物でした。でも、最近の気候変動とそれに基づくシミュレーションで、このままだと近い将来、人類を含む地球上の全ての生命の危機が来ることは間違いない事実です。
現在内閣府が提唱するSociety 5.0は「人間中心の社会」です。便利で快適な安心な生活を目指しています。私たち農学では、十八世紀の農業革命、そして二十世紀の緑の革命によって、人類は生き延びていくための食糧を大量に生産することに成功しました。飢えから脱却するためには必要な改革でしたが、これも人間中心の行為でした。その結果、かけがえのない地球が破壊されてしまいました。私たち農学人は、それを素直に反省して、人間中心の研究から、生物圏の自然資本の視点からの研究に転換させてきています。いわゆる、人間中心に回る「天動説」から、地球上の生きものたちと一緒に回る「地動説」への発想の転換です。
ところで、本郷キャンパスは加賀藩前田家の屋敷の跡地で、当時のものとして赤門が残っているのは皆さんご存知のことと思います。農学部はというと、言問通りにかかる通称「ドーバー海峡」と呼ばれる橋を渡った弥生キャンパスにありますが、実は、前田家ではなく水戸藩でした。橋を渡ると左手に、朱舜水という人の碑があります。朱舜水は、水戸藩お抱えの蘭学者でしたが、西洋の文化をいち早く導入しました。その結果、水戸光圀公はいつも新しいものを食べることができたのです。例えば、日本で初めてラーメンを食べたのは光圀と言われています。ちょっとこじつけですが、農学部の土地は、「食」研究をする下地があり、新しい視点をいち早く入れて発想の転換をはかることができる文化があったのだと思います。
農学の重要なテーマの一つとして「食」があります。二十世紀は食糧生産が大きな課題でしたが、地球環境を維持しながら、百億に近づく地球人口を支えるのには、新たな発想と技術が必要です。農学部では、高齢化社会で未病・予防のために美味しく健康的に食するための栄養・免疫・感覚研究、それを支える最先端のデータ解析/AI・数理・予測ツール/評価手法・微量センサー技術の開発研究、生物多様性を維持しながら健全な土壌から食料を持続可能的に供給する研究、自然資本主義をもとにした未来型フードサイエンス研究など、農学ならではの「食」研究を推進しています。
私たち農学の研究者たちは、地球上の全ての生命体の健康を目指すOne health、自然生態系の回復を目指すNature positiveといった方向性に貢献しようとしています。これからは、地球上の全ての生き物と共生するという考え方を忘れてはいけません。そして、ボトムアップの基礎研究は重要ですが、農学が行っている多くの社会課題解決型研究は、必ずしもトップジャーナルに掲載されるものではないですが、同じくらい重要です。地球を壊さず自然資本主義を考えていく上で、成果として必ずしも明確に目に見えない研究が価値ある学問になりつつあります。星の王子様の言葉を借りると「心でしかよく見えないんだよ。大切なものは目には見えないんだ」。
食料を作り、それを食べて、安心な生活をおくり、ひととの適切なコミュニケーションをとって幸せに生きる、こんな当たり前の何げない生活に、農学は大きな貢献をしています。農学は、「生物のしくみを知る」「自然界のモノの性質を知る」「環境・生態系を知る」「ヒトと自然の関係を知る」ことを目的とする学問です。これらの研究で得られた知見を応用して、人間社会に活用することによって、私たちの心と生活が豊かになります。私たちは自然に生かされています。農学部に進学して、食、環境、資源、生命、健康といったキーワードを基軸に、人類のWell-being(幸福)を追求しつつ、かけがえのない地球の自然と人間との共生を実現するために一緒に歩んでみませんか。
(農学部長/生命化学工学)
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