教養学部報
第663号
脳と腸の会話による代謝の調節
坪井貴司
新聞を読んでいると、自分の腸内細菌の組成(具体的には、腸内マイクロバイオータと呼ばれます)を調べて、自分の腸内マイクロバイオータにあった食事をカスタマイズできるといった食品の広告を目にすることがあります。テレビを見ていると、「加齢に伴い低下する記憶力をサポート」という食品のコマーシャルを目にします。ネットサーフィンをしていると、「腸活」をテーマにした特集記事を目にすることがあります。
このように、腸内環境と健康に関する情報に毎日触れていると、「腸内環境を整えれば健康になる」ということがすでに科学的に証明されていると思われるかもしれません。しかし、腸がどのようにして全身の生理機能に影響を与え、体の調子を整えるのか、その詳細なメカニズムについては、不明な点が残されています。
近年、体の中でも、「脳と腸」が密接に互いにやり取りをしていて、影響を互いに及ぼすことで、私たちの心身の状態を調節していることが明らかになってきました。このようなしくみは、「脳腸相関(または腸脳相関)」と呼ばれています。皆さんにも経験があるかもしれませんが、緊張するとお腹が痛くなって下痢(もしくは便秘)するということも、この脳腸相関の乱れが原因であることが分かってきました。また、脳腸相関の乱れが、糖尿病や肥満、パーキンソン病やアルツハイマー型認知症、さらには自閉スペクトラム症やうつにも関係している可能性があることが示唆されています。つまり、腸はもはや、全身の不調に関わっているといっても過言ではありません。
さて、皆さんは脳下垂体という名前をお聞きになったことはありますでしょうか? 肝臓や心臓などと違って、脳下垂体に関連する病気に罹らない限りはほとんど耳にすることのない言葉だと思います。読んで字のごとく、「脳からぶら下がっている器官」です。この脳下垂体は、眉間の奥約7㎝前後のところにある小指の先端ほどの大きさで、重さは1gほどの小さな器官です。この小さな器官からさまざまなホルモンが分泌されていて、成長や代謝の調節、出産や母乳の産生などさまざまな生命現象を調節しています。つまり、普段はまったく気にかけることのない脳下垂体ですが、私たちが生きていくためには必要不可欠な器官です。
脳下垂体から分泌されるホルモンの一つにバソプレシンがあります。このバソプレシンは、血圧や腸管運動、さらには情動や社会的行動などに関わります。バソプレシンを脳下垂体から投函された手紙とすると、この手紙を受け取るために、私たちの体内の細胞表面には、三種類の郵便受け(具体的には受容体)があり、それぞれV1aR、V1bR、V2Rと呼びます。腎臓には、V2Rが存在し、バソプレシンを受け取ると、体内の水分を再吸収します。つまり、尿を濃縮します。そのため、バソプレシンは、抗利尿ホルモンとも呼ばれます。私たちが夜中トイレに行かなくてすむのは、寝ている間に脳下垂体からバソプレシンが分泌され、腎臓で尿が濃縮されているからです。逆に赤ちゃんがおねしょをしてしまうのは、脳下垂体からのバソプレシンの分泌が、生まれたばかりでまだ上手ではないためです。
さて、バソプレシン受容体であるV1aRとV1bRの二つの遺伝子が欠損したマウス(V1aR+V1bR欠損マウス)では、糖や脂質を体内でうまく利用できない、つまり糖代謝や脂質代謝異常が起こります。しかし、なぜこのような異常が生じるのかその原因は不明でした。そこでV1aR+V1bR欠損マウスの骨格筋や脂肪を燃焼して代謝を活性化する褐色脂肪組織を解析したところ、細胞内に脂肪が蓄積していました。また、血液中に含まれるさまざまなホルモンの濃度を測定したところ、小腸から大腸にかけてまばらに存在する腸内分泌L細胞から分泌される消化管ホルモンであるグルカゴン様ペプチド─1(GLP─1)の濃度が低下していました。なお、このGLP─1には、代謝調節だけでなく、血糖値を下げ、食欲を抑制する作用もあります。
腸内分泌L細胞は、食事に含まれる栄養素や腸内マイクロバイオータが作り出す代謝物(腸内代謝物)を受容してGLP─1を分泌します。そこで、V1aR+V1bR欠損マウスの腸内マイクロバイオータと腸内代謝物の組成を調べたところ、酪酸を産生する細菌が増加し、腸内の酪酸の濃度が増加していることが分かりました。そこで腸内分泌L細胞由来の培養細胞に酪酸を長期間添加したところ、GLP─1の分泌機能に異常が生じたのです。
以上の結果から、バソプレシン受容体の遺伝子欠損マウスでは、腸内マイクロバイオータと腸内代謝物の組成が変化してGLP─1の分泌機能に異常が起こっていることが分かりました。そして、このGLP─1が正しく分泌されないことで、骨格筋や褐色脂肪組織において脂質代謝に異常が起こり、これらの組織で脂肪が蓄積することが分かりました。また、脳下垂体から分泌されるバソプレシン自身が腸内分泌L細胞に作用してGLP─1の分泌を引き起こすこともわかりました。つまり、脳と腸の会話によって、体内の代謝バランスが調節されているのです。
皆さんは、気持ちよく眠るために晩酌をしたら、夜間にトイレへ行きたくなったという経験があるのではないでしょうか? 実はお酒にはバソプレシンの分泌を抑えるはたらきがあります。今回の結果から想像をたくましくして私たちヒトにあてはめて考えてみると、お酒を飲みすぎると、バソプレシンが分泌されなくなるため、腸の動きが悪くなり、腸内マイクロバイオータが変化してしまいます。すると腸内の酪酸が増えてしまい、食欲や代謝を調節するGLP─1が分泌されにくくなります。その結果、代謝が悪くなり太りやすくなると考えることができそうです。私たちが健康でいるためにも「腸を労わることは、チョウ大切」といえそうです。
(生命環境科学/生物)
〇関連情報
【研究成果】腸内代謝物と消化管ホルモンを介した代謝調節 ─腸内マイクロバイオータ・ホルモン・脳システムの解明に向けて─
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/news/topics/20241212140000.html
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