教養学部報
第663号
<本の棚> 藤川直也 著『誤解を招いたとしたら申し訳ない 政治の言葉/言葉の政治』講談社選書メチエ
朝倉友海
「言葉に裏の意味を忍ばせている」とよく京都人は非難される。だが、これはコミュニケーションを円滑にする工夫からくるものであって、よく戯画化されるような「底意地の悪さ」によるものではない──と私は思いたい。確かに、裏の意味については悪質な使用法もあるし、人が衝突する際に意味の揺らぎが問題を複雑化させることもあるが、他方でまた、意味の揺れや遊びにこそ文化的な豊かさの秘密がある。
裏の意味や意味の変化がコミュニケーションにおいて果たす様々な役割を、藤川は本書で追究している。かつての言語哲学は、表現がもつ文字どおりの意味を形式言語で表示することに執着する印象を方々に与えていた。ある種の分析哲学には今でもなお、意味の揺らぎを根絶しようとする欲望が透けて見える。こうした恐ろしげなイメージからきわめて遠く離れた新鮮な仕方で、藤川はリアルな言葉のやり取りにぴたりと寄り添い、語用論や認識論の成果を渉猟しつつ言葉のやり取りを丁寧に分析している。
意味の遊びや変化は、高度な文化性につながる以外に、きわめて粗野な事象とも容易に結びつく。言葉を使って社会生活を営む人間にとって、意味をめぐる揺れは政治的な事柄に直結している。言ったことを平気で覆し、偽りの公言をする政治家。でたらめが蔓延する世の中、そして今日の世界情勢。言葉はどこまでも意図的に捻じ曲げられる......。
近年の分析哲学には、あらゆる領域で政治的関心の前景化が目立つ。その副題どおり、政治家による発言や法廷での発言を多く俎上に載せる本書もまた、このトレンドの中にある。もしも、その政治色に嫌気がさして本書を閉じようとする読者がいたとするなら、もっと先まで読み進めてから判断すべきだろう(頁をめくる手が止まらない読者の方が多いにしても)。本書の真価は別のところにあるのだから。
普通に考えれば、意味の揺らぎや変化に対しては一定の制約が必要だ。意味の共有は社会インフラであり、そのインフラが壊れたとすれば修繕しなければならない。とはいえ、もし意味の揺らぎを忌避するのであれば、先に述べた「恐ろしげなイメージ」が舞い戻ってきてしまいかねない。藤川は逆に、意味の揺らぎや変化にこそ融通の利く「コミュニケーションの豊かさ」があると主張する。さらに、意味を固定化する方針には「抗いたい」とまで言う(「おわりに」)。本書の最大の美点は、意味の揺らぎに対するこの柔軟な姿勢にある。
では、求められるコミュニケーションの豊かさとはどのようなものだろうか。この点で少し私見を差し挟むなら、裏の意味に対する「否認可能性」の概念によって、視界に入りにくくなる事象もあると私は思う。京都的な物言いは措くとしても、他にも例えば、教師が学生に対して伝える場合などを考えてみよう。直接に言うと現在の理解水準をはみ出るからこそ、別の伝え方を工夫することはよくある。複数の文脈ないし理解水準に跨った表現の組み立てには、しっかりと伝えたいがための「裏の意味」があるように思うのだ。
本書は確かに「裏の意味」に対し、否認可能性による厳しめの規定を与えることから始めている。だが、半ばを過ぎたあたりで、否認可能性にいくつかのタイプの区別を新たに導入する(第八章)。これにより考察はぐんと彩り豊かなものとなる。続いて、「聞き手の意味」という概念を導入するにあたって、否認可能性の概念じたいに拡張をほどこす(第十一章)。こうしてコミュニケーションの実態が次第に明らかになるという構成を、本書はとっている。
以上の慎重な手順を踏むことで藤川は、意味決定の仕組みや意味変化の問題にまで、考察を大きく展開させていく。ここに見られるのは、読者を考察へと誘うための、実に教育的配慮が行き届いた構成である。
意味には遊びがあり、それをめぐる争いや交渉があり、意味の変化がある。具体的な事例は、本書に挙げられている例により尽くされるわけではなく、読者の身の回りで新たに見出され続けるだろう。豊かなコミュニケーションへ向けて読者が自分自身で考えていくために必要な多くの事柄を、本書は惜しみなく教えてくれる。
(超域文化科学/中国語)
無断での転載、転用、複写を禁じます。