HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報664号(2025年6月 2日)

教養学部報

第664号 外部公開

「縦読みマンガ」から考える

三輪健太朗

 駒場の表象文化論コースにマンガ研究者として着任し、三年目を迎えました。大衆文化たるマンガには現在進行形で様々な変化が生じており、新たな話題についての見解を求められる場面がしばしばありますが、近年最も注目を集めているトピックの一つが「縦読みマンガ」です。これは、紙の書籍のようなページ単位の区切りがなく、一エピソード分のコマが縦に長くえんえんと連なった画像をスクロールしながら読んでいくという、スマートフォンでの閲覧を基本に想定された形態のマンガです。韓国から広まり、日本でもここ十年ほどで市場規模を拡大してきました。社会的な認知度も徐々に高まっており、私も先日メディアの取材を受けましたし(『朝日新聞』二月一四日掲載)、学生や若い研究者の間では研究対象として注目する人も現れてきています。

 こうした新しい文化事象に立ち会うとき、世間的な関心が集まりやすいのは、第一にその新しさを保証する根拠としての、従来型のマンガとの差異であり、そして第二に、縦読みマンガはマンガ業界をどう変えていくのか、今後さらに発展してマンガというジャンルの枠組みそのものを変えてしまうのか、といった未来予測でしょう。しかし、(私も含め)文化史的な関心の強い研究者にとって、新しい現象はむしろ、過去の見方を更新してくれる可能性を持つものとしての魅力とともに立ち現れます。そして、そのような射程で過去を見渡す視座に立ったとき、現在の新しさを保証しているかに思えた差異の性質そのものが異なった光のもとで見えてくるということも起こり得ます。

 たとえば、これまでとの差異を語る言説の一種として、かつてのマンガに親しんできた人間の目には、縦読みマンガはあまりにも「単純」に見えるという指摘があります。従来の物語マンガは、ページという単位の中にさらに複数のコマが配置されるという、入れ子状になったフレームの二重性に基づいて構成されており、一つずつ形も大きさも変数として操作しうる複数のコマをページの上にどうレイアウトするかというその選択によって、読者の視線を様々な趣向で誘導し、演出上の多様な効果を生み出します。他の芸術ジャンルには見られないこの複雑な「コマ割り」という仕組みにこそマンガならではの特性があるのだという主張は、マンガ論ではお馴染みの議論の一つです(実際、私もそうした前提に立って、前期課程科目「文理融合ゼミナール」ではマンガのコマ割りを実践的に学んでもらう授業を開講しています)。

 他方、縦読みマンガは、主たる閲覧用デバイスとして想定されているスマートフォンの画面の物理的なサイズに最適化されているため、一度に視界に入るのは一、二コマ程度というのが通例であり、複雑なレイアウトを試みるには限界があります。結果的にマンガを一方向的でリニアな媒体として規定するという意味で、縦スクロール方式はマンガを単純化してしまっている、という非難はいわれのないものとはいえません。さらに、スマートフォンというデバイスを前提としていることは、電車での通学通勤中や手持無沙汰な休憩時間や就寝前のひと時といった隙間時間に効率よく消費できる娯楽としての性質を持つことも示唆しています。だからこそ縦読みマンガは、近来の流行語にいう「タイパ(タイムパフォーマンス)」を重視する現代人に訴求するのだ、といった分析をつい施したくもなります。

 しかしここで思い出すべきなのは、現代人が電車でスマートフォンの画面に目を落としているのと同様に、かつての日本人は電車でマンガを読んでいたという事実です。一九七〇年代以降、駅の売店を主要な販路の一つとした日本のマンガ雑誌は、短時間で楽しむことができ、ひと駅単位で細切れに消費できる商品となることで、電車通勤するサラリーマンの生活と密接に結びつくことに成功しました。この意味で、そもそも紙のマンガもまた疑いなく消耗品的な娯楽として存在していたのですから、メディア環境が変化した際に、その時代のデバイスに適応した形態が派生してくることは単に必然だともいえます。

 さらに、私が縦読みマンガを閲覧していて気づかされるのは、一見するとタイパに優れたこの形態が、実のところ紙媒体のマンガよりも「飛ばし読み」に不向きであることです。見開きページの十数コマが一度に視界に飛び込んでくる紙のマンガでは、マンガを読みなれた読者であれば、一連のシークエンスの肝となるコマを瞬時に見抜き、その周辺の情報だけに目を走らせていくことで、その場面で描かれていることの概要をかなりの速度で読み取ることができます。しかし全てのコマを順にスクロールしていくしかない縦読みマンガでは、最も重要な場面を事前に見抜くことができず、かといって全てのコマを高速でスクロールすると、画面があまりにも速く視界を滑ってゆくために何も読み取れなくなってしまいます。
縦読みマンガは、隙間時間に手軽に読めるという点では確かにタイパ重視の消費態度と親和性を持つかもしれませんが、情報を速く効率的に伝達するという点ではむしろ、紙を綴じた冊子状の本という(あまりにも優秀な)オールドメディアに依拠したマンガと比べて、かなり分が悪いように思われます。翻って、従来型のマンガの愛好家はしばしば、縦読みマンガの「単純さ」と対照させつつ、紙のマンガの「複雑さ」を称揚するわけですが、その見かけ上の複雑さは、誇るべき美学的な価値の源泉としてだけではなく、むしろ情報の効率的な摂取を可能にする装置としても機能しているのです。

 では、私のこの短い記事は、単なる消耗品的な娯楽であるという意味では従来型のマンガも縦読みマンガも本質的に変わらず、方向性はそれぞれ異なるもののいずれもタイパ重視の現代生活に対応しているのだ、と主張しようとしているのでしょうか。一面ではまさにその通りですが、もちろんそれだけに尽きるわけではありません。強迫的に時間に追われるかのような感覚は、(たかがここ数年の若者の性向などではなく)近代人の抱える困難そのものというべきであり、マンガのような通俗的大衆文化も、もっと「高尚な」ものとみなされている芸術も、いずれもその困難と対峙すべく、儚さと瞬間性に時間感覚の基盤を置いた美学を構築しています。この意味で、マンガは確かにキッチュな消耗品的娯楽として発展したジャンルでありながら、モダニズム芸術などとも表裏一体となって近代文化史に欠くことのできない一面を構成しているのだ、という見立てこそが私の研究の基本的な着想なのです。しかしそれを詳述する紙幅はすでに尽きていますので、関心を持って下さった方には、私の授業や著作の中でぜひお会いできたらと思います。

(超域文化科学/先進融合)

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