教養学部報
第664号
コヒーレント・ハイパーラマン分光の開発 ──新規非線形振動分光法の開発──
井上一希、奥野将成
近年の光科学技術の発展は著しく、レーザーなどの光源や検出器の性能が大幅に向上している。それに伴い、あらたな光科学技術の応用も盛んに行われている。光科学技術のひとつの応用として、我々が専門としている分子分光学がある。分子分光学とは、「光と分子の相互作用を用いることで、分子の構造やダイナミクスに関する情報を得る」ことを目的とする学問である。一口に「光と分子の相互作用」といっても、さまざまなものがあげられる。物質による光の吸収・散乱・回折は光と分子の相互作用の一例である。光(電磁場)の強度がそれほど大きくない場合、これらの光と分子の相互作用は、光の強度に比例した、いわゆる線形な信号を与える。一方、光強度を大きくしていくと、光の強度に非線形な信号の寄与が大きくなる。この光と分子の非線形な相互作用(非線形光学過程)を用いる分光法が、非線形分光法である。
非線形分光法の一種に、近年我々が着目しているハイパーラマン(HR)分光法がある。HR散乱は、入射光(角振動数ω0)を物質に照射すると、その2光子分のエネルギーから、物質の示す分子振動の角振動数(Ω)だけシフトした角振動数(2ω0─Ω)をもつ光を自発的に散乱する現象である。散乱によって生じたHR光を分光し、スペクトルを測定して分析することで、分子振動を通じて分子構造に関する情報を得ることができる。このように、分子振動を反映したスペクトルを得る手法を振動分光法と呼ぶ。赤外(IR)吸収分光法は、分子振動に伴う赤外光の光吸収を観測する振動分光法である。また、近年物質科学・医薬分野などで必要不可欠な手法として広く用いられているラマン分光法も、振動分光法の一種である。通常のラマン散乱は、入射光(角振動数ω0)に対して分子振動の角振動数(Ω)だけシフトした角振動数(ω0─Ω)をもつ光を散乱する。一方、非線形分光法であるHR散乱は、入射光が2光子分関係する点がラマン散乱と異なる。信号発生の起源の違いから、HR分光では赤外吸収、ラマン分光法では得られない分子振動および分子構造情報が得られるものと期待され、近年注目を集めている。しかし、信号光が極めて微弱であるため、単純な液体試料から良好なHRスペクトルを測定するためには、数時間~数十時間を必要とする。そのため、HR分光自体は一九六〇年代に開発されているものの、その後実験的研究がほとんど進んでいないのが現状である。
今回我々が開発した「コヒーレント・アンチストークス・ハイパーラマン(CAHRS)分光法」は、極めて微弱なHR散乱光を非線形光学過程によって増幅する手法である。CAHRS分光法は電場と分子が5回相互作用する5次非線形分光法である。最初の三つの電場によって対象とする分子振動を強制的に(位相を揃えて)振動させる。そののち、さらに二つの電場を加えることで信号を発生させる。5次非線形分光は、これまで非常に限られた測定例しか報告されていない。CAHRS分光法も数十年前に理論的には提唱されていたものの、これまで実験での報告はなかった。我々は高繰り返しのフェムト秒光源を用い、さらに実験配置を詳細に検討することで、世界で初めてCAHRS分光を実験的に実現した。原理検証実験として、パラ─ニトロアニリンの溶液およびベンゼン純液体の測定を行い、これらから良好なCAHRS信号取得に成功した。5次非線形光学過程に基づくCAHRS散乱光は、より低次の非線形光学過程に由来する信号のコンタミネーションを容易に受けることが予期される。そのため溶液の濃度依存性や入射光強度依存性、偏光依存性など、さまざまな角度から検証を行い、確かに測定された信号はCAHRS信号であると結論付けた。また、前述の自発的に散乱される微弱なHR信号と比較して、CAHRS信号は二~三桁程度増強していることを実証した。この強度増強により、CAHRS分光を用いることで、HR分光のさまざまな方面への応用が進むと期待される。

非線形分光法は、従来の線形分光法では得られなかった情報を得ることを可能にする手法として、近年精力的に研究が行われている。一九八〇年代にはじめて理論的にCAHRS分光を提唱した論文では、「液体試料のCAHRS信号測定は、信号を発生させるためのレーザー光強度が大きいため、信号発生の前に分子が誘電破壊されて信号が得られないであろう」と記載されている。一方、今回の研究では、液体/溶液試料からも分子を破壊することなく、良好なCAHRS信号を測定できた。これは、以前は考えられなかったようなレーザー光源が近年出現し、不可能と思われていた実験が実現していることを示しているといえる。今後我々はCAHRS分光のさらなる応用に加え、これまで実現していない非線形分光法を開発し、さらにそれらを用いてこれまで明らかにされていない分子の構造やダイナミクスを探求していきたいと考えている。
(相関基礎科学/化学)
〇関連情報
【研究成果】コヒーレント・ハイパーラマン分光の開発 ──新規非線形振動分光法の開発──
https://www.c.u-tokyo.ac.jp/info/news/topics/20250110190010.html
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