HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報665号(2025年7月 1日)

教養学部報

第665号 外部公開

日本学士院賞を受けて

森元庸介

 直後に「もしかしたら......」と案じてくれた先輩や友人もいたように、実際、知らせを受けた瞬間、「困ったな」という思いばかりが募った。あれこれの理由のしかし最たるものは、受賞事由となった著書(La Légalité de l'art. La question du théâtre au miroir de la casuistique, Paris, Cerf, 2020)が、なるほど紆余曲折があり出版までに長い時間を要したとはいえ、内容は、いまからほぼ一五年前にフランスで提出した博士論文と実質的に同一だからである。本文に先立ち明記していることだから疚しいところはない。しかし、また誇れることであるはずがない。それによって明らかとなるのは、以来、今日までのわたしのひたすらな無為、さらには退歩にほかならないのだから。ただ、それについてむやみに言葉を連ねることはかえって不遜にあたるだろう。機会の与えられたことを奇貨とし、とりわけ若い読み手の方を念頭に、発端から対象領域の確定までの過程に相対的な紙幅を割きつつ、ひとつの事例を提示する。

 パリに留学していた二〇〇〇年代前半、わたしは博士論文の主題として、ひとまず「近世ヨーロッパにおける混合感情」なるものを掲げていた。いわゆる「悲劇の快」を範例としながら、実生活にあっては不快と感じられるはずの事物が特定の状況下、とくに芸術作品のうちに表象されて快をもたらすそのゆえんを問うた著作家たちを対象とするつもりだった。専門家には知られた主題であり、関連する研究も多いが、包括的なそれはまだないように思われた。ただ、自身の能力に比して扱うべき範囲はあまりに汎く、早々と行き詰まった(あるいは、最初から躓いていた)。たぶん二〇〇五年の秋ごろ、晩に鬱々とした思いで自転車を漕いでいると、「結局、芸術はなぜよいとされているのか」という問い─というより疑問文─が不意に聞こえた。友人たちに話すと「ためにする無理な問いではないか」と諭された。なるほどそうだ、絞り込みの必要を感じ、やがて問いは「キリスト教世界にあって芸術が許容されることになったのはいかにしてか」というかたちを取ることになった。

 知られるとおり、キリスト教は原理のレヴェルでは旧約聖書に定められた偶像礼拝の禁止を踏襲し、また、それと連動しながらスペクタクル(演劇、ダンス)を汎く禁圧の対象とした。前者について、少なくとも西方では諸々の議論を経て──しかしまた、いくらか済し崩し的に(?)──イメージの使用が許容されるようになったのだとして、後者は近世にいたるまで(聖史劇の実践という微妙な問題はあるものの)根幹で揺るがず、そのことの顕著な事例として、たとえば一七世紀フランスの大演劇人モリエールに対する断罪がある。ひるがえって、(必要な細部をいま省略していえば)今日、スペクタクルそれ自体はカトリックの公的見解においても少なくとも許容されている。この転換を促したものは──単に全般的な脱宗教化の余波というのでなければ──何なのか。

 こうした問題意識とともに、ほとんどあてずっぽうにそれまでとは別種の探索を試みるうち、近世のカトリック道徳神学が対象領域として浮上してきた。すでに中世、かのトマス・アクィナスがスペクタクルについて相対的に寛容な見解を示したことはよく知られるが、その持続的な影響下、演劇に対する伝統的な断罪を弛める教説を開発した一群の著者たちがいたのである。かれらは決疑論家と総称される。決疑論は、聖職者のみならず信徒一般の行動をめぐり、正邪の判断が困難となるような具体事例について解決を案出することに特化した道徳神学の一領域を指し、今日でいう応用倫理学のプロトタイプといってもよい。スペクタクル受容の是非も、その決疑論のうちにたしかに場所を占めていた。

 具体的に取り上げることになったトピックには、舞台上における異端的な発話の是非や洗礼における欺瞞(フェイク)とフィクションの類似などとともに、行為における悪意(とその不在)、教父文学と教会法の関係などやや硬いことがらも含まれ、かつまた、劇作品(ジャン・ロトルゥ『真説聖ジュネ』)の分析を試みたり、さらに、演劇を悪徳の源泉として斥ける立場を堅持した決疑論家たちも当然いたから、その所説の検討も必要となったりして、全体はゴッタ煮そのものである。上述の転換を考えるうえで決定的と思われる次の一点をのみ、少し具体的に紹介しておこう。

 すでに名を挙げたトマスへの重要な註釈を著したカイエタヌス(一五~一六世紀)という神学者は、ある著作で、ひとが現実の悪行(殺人、不倫、拐帯......)をめぐる純然たる思惟(cogitatio)をおもしろがることはあって、それが必ずしも致命的な罪障にはあたらないのと同様、ひとが芝居の上演(repraesentatio)において描かれた悪行をおもしろがっても(場合と程度に応じて)許されうるかもしれないと述べ、後代の少なからぬ決疑論家がこの所説を継承した。他人の犯した悪に同意するのでなく、ただそれをめぐって考察をめぐらせることから知的な快を得ることと、舞台上で演じられた悪をただ演じられたそれとして受け取ることから美的な快を得ることが同列に並べられているのである。すぐに思い当たる方もあろう、今日、映画やTV/配信ドラマなどの終わりに掲げられる「この作品はフィクションであり......」といった但し書きは、当事者の意識の有無は措いて、キリスト教決疑論のうちに雛形を有していたかもしれないのだった。

 いかにも均整を欠く要約となったが、そのうえでなお強調すべきは、以上に紹介した理路が演劇(ひいては芸術表象一般)を強く称揚するというより、それが許容されうる条件を画定しようとするものだった点である。表題に「合法性(légalité)」という語を掲げたのはそれゆえのことであり、付言するなら、本研究は制度史に隣接するものだと自分で思っている。いささか消極的に過ぎるとの印象を受ける向きもあろう。ただ、対立をさえ含む多様な現れのすべてとともに「よさ」を疑うべくもない─わたしは結局、もちろん、そう確信している─芸術が、しかし、有形無形の野蛮のもとでその自明性を揺さぶられるようでもある今日の状況に鑑みるなら、消極的な理路が形成された歴史的経緯に立ち返ってみることもなにがしか積極的な意義を持ちうるかもしれない。と同時に、わたし自身は、少なからず安易な悲観に流れたかもしれない著書の結論部を見直さねばならないとも感じている。けだし、身に過ぎる今回の受賞が、研究の再開と更新を促す強い勧告と感じられるゆえんである。

(超域文化科学/フランス語・イタリア語)

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