HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報553号(2013年1月 9日)

教養学部報

第553号 外部公開

山下晋司先生をおくる言葉

渡邊日日

山下先生とは長いお付き合いであった。私が教養学部後期課程に学士入学し、地域文化研究のロシア科(当時の名称)に所属しながらも、その頃は文化人類学の研究者になることを考えていたので、副専攻に文化人類学を選び、積極的に授業を受講して以降のことだから、一九九二年からの約二〇年のお付き合いである。学生・院生の立場、また、文化人類学コースでの同僚の立場から、想い起こすことを、先生のご研究の軌跡も合わせ、ここに書き綴ってみよう。

山下先生はアメリカ文化人類学の動向を注視しながら、伝統的な人類学の領域に留まらず、その先端を見つめ続けてこられたように思う。私が学部生のころ、先生は、東南アジアの民族誌的研究の他に、主にエスニシティ論、都市人類学に着目されていた。今でこそこれらの領域はいわばデフォルトで人類学の支柱となっているが、その頃日本では必ずしもそうでなかった。

学生からは山下先生は怖がられていた。授業での厳しさからというよりは、その風貌からである(失礼)。確か先生は、映画「一三日の金曜日」の連想で、「ジェイソン」というあだ名が付けられていたはずである。尤も私に印象が残っているのは、そういう「怖さ」の方ではなく、授業のときに、「処女が失われるとき儀礼的行為がなされることは多いが、童貞喪失の儀礼ってあるんだろうか」という台詞をおっしゃったときの、何とも形容し難い笑顔と声の方である。

その後私は修士課程に進学し、シベリア南部の先住民ブリヤート人を対象に修士論文を書き上げたが、その審査の席で山下先生からお褒めの言葉を頂いた。先生が、ブリヤート人をフィールドにしようと考えていたことがあると伺ったのはその後のことであるが、インドネシアではなくシベリアを対象としていたら、その後の先生の研究はどう変わったのか、少し考えてみたいところである。

山下先生は、一九九〇年代半ば頃から、観光を専門的な研究分野と位置付けられるようになり、『バリ――観光人類学のレッスン』(東京大学出版会、一九九九年)、最近では『観光人類学の挑戦――「新しい地球」の生き方』(講談社選書メチエ、二〇〇九年)を公刊された。この分野で日本の第一人者として研究されながら、その他にも、文化人類学の昨今のプロジェクトとしては最も大きかった「資源人類学」の共同研究で文化資源班を統括して、文化概念の刷新に努力され、また、「人間の安全保障」プログラムでは、公共人類学の立ち上げを図ろうとされている(進行中)。これだけの活躍をされてはいるが、それでもご本人曰く「仕事は七割で良しとしないと」。日本民族学会(現日本文化人類学会)会長もこなされた中でのことである。

二〇年を振り返ることは難しく、またこれからのことを予想するのも難しい。しかし、山下先生がご定年後も、独自の道を歩まれていくのは確かであろう。

(超域文化科学専攻/ロシア語)

 

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