HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報624号(2021年1月 5日)

教養学部報

第624号 外部公開

<駒場をあとに> アメリカ地域文化研究を志して

遠藤泰生

 二〇二〇年の夏、駒場のキャンパスに足を踏み入れると、どこかの森にでも彷徨い込んだ気持になった。COVID-19の影響で人影がまばらになり、長梅雨もたたったのであろう、九〇〇番教室周辺はすっかり苔むし、銀杏並木には七月末まで牛蛙の大きな鳴き声が響いていた。こんな森閑としたキャンパスで駒場最後の年を過ごすことになるとは、思ってもみなかった。
 叔父が駒場で教職についていたため、小学生の頃からキャンパスには馴染みが深かった。雪山で初めてスキーを滑ったのは八歳の時だが、それは体育教室が開催していた学部学生のためのスキー合宿に無理矢理参加させてもらった時だった。文科三類入学以後、米国に留学していた四年間と初めて教職についた名古屋大学での二年間半を除けば、人生のうちの大半を駒場と共に過ごしてきた。キャンパスを初めて訪れる知人の多くは、巨木が聳えるこの空間をまるで公園のようだと羨む。その巨木を見上げながら研究室に通う生活を終えようとする今、この空間で巡り会った師、同僚、学生への感謝の思いと、その恩に十分には報いることがなかったいう自責の念とが、胸の中で淡く交錯する。
 専門は地域文化研究であり、なかでも北アメリカの歴史と文化を研究し教育してきた。ただ、自分が純正のアメリカ研究者かと問われると、どこか違う気持ちが常に私にはある。アメリカ合衆国を外から眺め、日本や各国の歴史と見比べる態度が他のアメリカ研究者より強いからであろう。そもそもアメリカ研究に私を導いてくださったのが、近世の日本やフランスを研究されていた比較文学研究者の芳賀徹先生であったから、それも仕方がない。学部一年生の時に先生が全学自由ゼミナールで行った、独立宣言の起草者トマス・ジェファソンの『ヴァージニア覚え書き』(1785)の精読に惹かれ、大学院、学術の世界へと進んだと自分では思っている。駒場に赴任した日に旧八号館で先生とすれ違ったら「何者だ、名を名乗れ」とからかわれ、上野の美術展などで偶然お会いした折りにも「こんなところで学ぶ姿勢がおまえにあったのか」と、またからかわれた。そうした学芸を通した触れ合いを楽しむ余裕が、私が教壇に立ち始めた頃の駒場には残っていた。
 もちろん、だから王道のアメリカ研究に精進しなかったという話では右の話はない。四年に及んだイェール大学大学院での日々はなり振り構わぬ勉学の日々だった。それでも、研究対象へ頭だけで接近してもその広がりは掴み切れないという教えを、大学院で指導を仰いだ亀井俊介先生から叩き込まれていた。だから、心を震わしながら、アメリカ合衆国の歴史と文化を追う四年間をニューヘイブンで過ごした。そんな具合だから、アメリカン・デモクラシーの逆説や矛盾を糾弾してやまないアメリカ研究には、少し距離を置く研究者に自分はなったと思う。それが私の研究と教育の特質であり、また限界でもある。
 そのような自分が、何故か、日本のアメリカ研究の拠点の一つであったかつてのアメリカ研究資料センター専属の教員となり、その後、アメリカ太平洋地域研究センター、グローバル地域研究機構、グローバル共生プログラムの運営を順次託されることになった。自分には荷が重いと思いつつその任を必死に果たした駒場での三十年間であった。センターの存在感を高めることが私にとっての至上課題であったから、公開シンポジウムの開催や内外の研究者を含めた学会横断的な研究企画の立案、ニューズレターのかたちをとった広報誌の発行など、駒場の文系組織がまだ活発には行っていなかった事業の展開に腐心した。研究時間を奪い取られることへの不満は常に強かったが、それらの活動を通して得た国内外の知己は、今でも私の学術を支える大きな力となっている。若くして共に病没した建国期アメリカ史家のデイヴィッド・ジャフィーと日本史家のバーバラ・ブルックス夫妻のニューヨークのお宅には、クリスマス休暇中に幾度となくお邪魔し、雪のブロードウェイやグリニッチヴィレッジを三人で歩き回った。アメリカ合衆国や日本の歴史に関する二人との議論は尽きることがなかった。四〇歳の時に海外研修の一年間をボストンで過ごした。その時アパートの向かい部屋に偶然住んでいたドイツ人アメリカ経済史家のスヴェン・ベッカートとは、その後も付き合いが続き、何故もっと積極的にアメリカ人史家に向かって発言してくれないのかと今もメールで叱咤されている。
 最後に、学生たちとの出会いに触れないわけにいかない。駒場の教員の仕事は研究、教育、行政の三つにあると、駆け出しの頃からよく聞かされた。しかし、その中では、国内外から集まる優れた学生と議論をし、その成長を見守る教育の喜びに勝るものはなかった。社会に巣立った学部学生との付き合いも思い出深い。そもそも駒場では、教員は学生を育てるのではなく、学生に育てられるのだとも聞かされた。私の場合、確かにそうであった。駒場の最大の財産は学生である。その学生の活動が今後も国内外に開かれ、自然豊かな学びの空間が拡充を続けることを祈念してやまない。それをお別れの言葉としたい。

(グローバル地域研究機構/英語)

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