HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報643号(2023年2月 1日)

教養学部報

第643号 外部公開

フランスのセクト規制法から何を学ぶべきか

伊達聖伸

 最近のフランスでは、ムスリムの外套状の長衣であるアバヤやカミスを公立校で着用できるか否かが議論されている。「ライシテ」と呼ばれる厳格な政教分離体制を敷くこの国では、公立校での「これ見よがしな宗教的標章」の着用は二〇〇四年以来法律で禁じられている。すべての宗教に適用されるものだが、実質的にはムスリム女性が被るヴェールが標的になっていたため「ヴェール禁止法」と通称される。最近アバヤやカミスを着用する生徒が増えているようで、これがライシテの侵害であると受け止められ、教育省には明確な態度表明が求められている。
 一方、最近の日本では、フランスで二〇〇一年に制定されたセクト(カルト)規制法が一定の注目を集めている。その背景には、安倍晋三元首相が銃撃殺害されて(旧)統一教会と自民党を中心とする政治家との密接な関わりが大きく明るみに出たことがある。フランスでは一九九〇年代半ばにスイスやカナダで起きた太陽寺院事件、またオウム真理教が起こした東京の地下鉄サリン事件などを受けて、セクト対策への機運が高まり、法律制定へと至った。
 日本の学生たちを前に、フランスにおける宗教的衣装の規制について話をすると、着用禁止は厳しすぎるのではないか、信教の自由の観点から着用を認めてよいのではないかという反応が返ってくることが多い。と同時に、「精神の不安定化」、「法外な金銭要求」、「子どもの加入強制」など、一九九五年のギュイヤール報告書に提示されている社会および信者にとって有害なセクトを見分けるための十の基準を紹介すると、それらの基準はたしかに妥当であるとの反応がしばしば返ってくる。ここには、日本的な宗教的寛容と宗教嫌いの両方の感覚が顔を覗かせているように思われる。
 信教の自由を絶対視するとまでは言わなくても、大きく重視する立場からすれば、ヴェール着用も容認、セクト的な団体の活動の自由も容認という考え方に傾きそうなものである。ところがフランスのライシテは、信教の自由の保障をひとつの重要な柱としつつ、公立校での宗教的標章の着用を規制するものになっており、またセクト的運動団体を取り締まる法律にもその精神が脈打っている。このように宗教に積極的に介入するライシテの姿勢は、フランスの歴史のなかでどのように位置づけられるだろうか。またそれは、日本の宗教・カルト団体の規制にとって参考になるだろうか。
 フランスの政教関係の成り立ちを考えると、国家が諸宗教を管理統制する構図は絶対王政期にできた。一九〇五年の政教分離法は、国家が宗教に対して上位に立ちつつ、私的な領域で信教の自由を保障する自由主義的なものだった。しかし、二十世紀のある時点より、今度は宗教に公共的な役割をいかに認めていくかが課題になってきた。それはフランスのアイデンティティの新たな模索とも同時進行しており、伝統宗教であるカトリックを再所有化する一方で、他者の宗教や治安の観点から問題視されるセクトやイスラームには厳しく臨む面があった。
 二〇〇一年のセクト規制法法制化へのはずみをつけたのは、信教の自由の対象たる宗教と、規制と取り締まりの対象であるセクトとを区別する論理であった。しかし、実際に制定された法律ではセクトの実体的な定義をすることはできなかった。セクト的運動団体によるセクト的逸脱という行為を取り締まる構成になっている。
 ヴェール問題は、一九八九年に問題化した時点では、学校での着用自体はライシテの原則と矛盾しないが、強制勧誘活動などこれ見よがしな振る舞いは規制の対象になるとされた。だが、二〇〇四年の法律では、ヴェール自体がこれ見よがしな宗教的標章であると実体的に規定された。
 セクトとヴェールを比べると、一方は実体的な規定が不可能になり行為を取り締まる論理に変化したのに対し、他方は行為の取り締まりから記号の実体化へと向きが逆になっていることがわかる。宗教を管理統制する論理が、セクトからイスラームへとおもな対象を移したとも言える。
 日本の場合は、戦前に国家が宗教に介入した経緯への反省もあり、戦後は信教の自由が強い意味を持ち、政府は介入を控えてきた。オウムの地下鉄サリン事件は世界を驚かせたが、当局がオウムの違法行為についての情報を把握しながら事件が起きるまで踏み込むことを控える結果になったことも世界を驚かせた。
 統一教会に対しても、慎重な姿勢が目立つように思われる。政権と近い団体であることが大きな要因であるように見えてしまうが、規制を強化すると別の宗教団体およびその他の団体への将来的な波及効果が懸念されることもあるようだ。
私自身、国に対して報告質問権の行使や解散命令請求などを行なうことを求める「旧統一教会に対する宗教行政の適切な対応を要望する声明」(二〇二二年十月二十四日付)に名を連ねている。教団側は信教の自由を掲げるが、正体を隠した勧誘はむしろ個人の信教の自由を侵害している。
 私はこの間、取材を受けた新聞記者から、日本もフランスも同化主義的で全体主義的になるおそれがあるのではないかと尋ねられた。ケベックの歴史学者ジェラール・ブシャールも、日本とフランスを均質性の高い社会に分類している。しかし、フランスのライシテには原理原則に立ち返り、個人の自由を抑圧している(とされる)宗教団体と闘う強い意志が見られるのに対し、日本の宗教政策においては個人の人権よりも宗教団体の自由が重視されてきたのではないか。原理原則論というよりも、場当たり的で状況本位に見えてしまう。
 この原稿は、旧統一教会被害者救済新法が成立した時点で書いている。不法な寄付勧誘に罰則を設けることで、献金の問題については一定の改善が見込まれるかもしれない。だが、政治と問題宗教団体の癒着はまだ根本的には問い直されていないし、宗教的な児童虐待など、いわゆる宗教二世に対する人権侵害の問題は積み残しのままである。フランスのライシテやセクト規制法には、政教関係の適正化のほか、子どもの権利の保護についても学ぶべきものがある。

(地域文化研究/フランス語・イタリア語)

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