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最終更新日:2023.02.07

教養学部報

第643号 外部公開

<駒場をあとに> 論文公表の仕方も世に連れて

加藤光裕

image643-03-1.jpg この原稿を依頼されるのは、定年退職の半年も前なのですね。あまり実感が湧かない内に、引退モードに入るよう促されているのかもしれません。ただ、この数年の新型コロナ禍のせいで在宅ワークが増え、何となく定年後はこんな感じなのかなとシミュレーションできたおかげで、急に生活パターンが変わって戸惑うことも多分それほどなく、ソフトランディングできそうです。
 振り返ってみると、三十余年前に駒場に着任した頃は(タバコの煙朦々たる教授会には辟易しましたが)、研究の時間もたっぷり取れて古き良き時代の終わりかけくらいの時期でした。その後大学院重点化だの独立法人化だのと大学が段々と忙しくなっていき、運営費交付金も真綿で首を絞めるようにじわじわと減らされ、大学の基礎体力が落ちていく様子を、身を持って体験した世代ということになるのかもしれません。
 まあ、愚痴は傍に置いて、研究の道具も随分と様変わりしました。私が着任した一九九一年は、プレプリント・サーバー・システム「arXiv(アーカイヴ)」が始まった年です。それまでは、新しい論文を仕上げると、オフセット印刷した論文のプレプリントを、限られたところには航空便で、多くは船便で世界各国の主だった大学や研究機関の関係する研究室宛に送付したものでした。論文を学術雑誌に投稿すると、査読・校正・印刷の工程を経て、最終的に研究者の元に届くまで何ヶ月もかかるので、その前にいち早く目に留めてもらう手段がプレプリントです。
 arXivが出来てからは、同時期のネットの爆発的発達や論文作成技術の進化も相俟って、あっという間に世界中の研究者が新しい論文にすぐ目を通すことができるようになりました。始まった当初は、とても便利になったなと感じたものでしたが、そのうち情報の伝達速度が早すぎて、何となくいつも追われている感覚にとらわれるようになりました。じっくり腰を落ち着けて取り組む仕事よりも、絶えず世界の動向を気にして流行りの研究に手を出しやすくなり、流行のサイクルも短くなっていきました。今の若い研究者たちは、大学院に入った時からそういう環境に慣れていて何も思わないかもしれませんが、もう少し独創性を大事にしてじっくり深めていく研究も必要なのだがなあ、と思うのは私が歳をとったせいでしょうか。
 最初は、高エネルギー物理学(素粒子物理学)の分野から始まったarXivも、今では物理学や数学全般のみならず、計算機科学、定量生物学、計量ファイナンス、統計学、電子工学・システム科学、経済学のセクションにまで広がっており、多くの分野で欠かせない道具になっています。このarXivを始めたポール・ギンスパーグは、私と近い世代の高エネルギー物理学の研究者です。ワールド・ワイド・ウェブ(WWW)のプロトコル(http)を最初に開発したのも実は高エネルギー物理学の研究者たちです。どうも(私も含めて?)この分野の研究者は新しもの好きで、しかも自分で作り上げてしまう性分の人間が多いようです。蛇足ながら、私も着任後(あのスティーブ・ジョブズの)NeXTワークステーションを五台導入し研究室内でそれこそ手作業で廊下の天井伝いに配線してLANを組んだり、一九九四年には研究室のウェブサーバを立ち上げました。当時ヤフーはまだ検索エンジンではなく(数が少ないので)単なるカテゴリー別サーバーリストだった時代でしたが、そこにいち早く掲載されています。
 その後、学術雑誌もどんどん電子化が進み、オンラインのみの雑誌も増えました。オープンアクセス化の流れも不可避です。オープンアクセスは、論文を読む側は無料で、論文を投稿する側が論文掲載料(APC)を負担する出版モデルです。これによって広く研究成果を(読む側の財力によらず)還元できるというメリットがあります。一方で、論文を書く度にAPCを負担せねばならず(両方を無料にすることはできないので)これをどのように支援していくのかが重要です。大学や研究機関単位の支援も始まりつつあり、これはこれでどんどん充実させていただきたいと思います。
 ここでもまた高エネルギー物理学研究者は行動しています。出版社とのAPC価格の交渉をする際に、個々の研究機関ではとても対等に渡り合えない相手でも、業界全体(つまり世界中の研究者の集まり)としてなら十分な説得力を持って交渉できるだろうと。現在、arXivのカテゴリーで、hep- で始まる分野の論文は、主な学術雑誌においてオープンアクセスが実現しています(つまり雑誌購読料はかからない)。そのかわり、浮いた購読料をAPC負担に振り替えます。スイスのジュネーヴに本部があるCERNという組織は世界の高エネルギー物理学研究者の代表として、各出版社と交渉にあたり、参加する大学・研究機関は割り当てられた負担分を、各国の取りまとめ機関を通じて支払うことで、多くの場合に個々の研究者が直接の負担をする(感じる)ことなく論文を発表できる仕組みを作りました。SCOAP3(スコープスリー)と呼ばれるこの試みは、モデルケースとして他分野からも注目されています。もちろんこの方式が最善かどうかは一概には言えませんが、一定の成果は挙げていると思います。
 研究を取り巻く環境は、時代と共に様々に変化していきます。どうしたらより良く研究が進められるか、新しい技術や社会情勢等を踏まえて、環境を整え作り上げていく努力を研究者が(受け身ではなく)主体的に取り組んでいくことで、ニーズに適ったものにしていく必要があると思います。もちろんそれに見合った質の高い研究を追求していくことは言うまでもありません。

(相関基礎科学/物理)

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