HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報643号(2023年2月 1日)

教養学部報

第643号 外部公開

<送る言葉> 稲葉寿先生を送る言葉

齊藤宣一

 稲葉寿先生は、日本の数学コミュニティにおいて、特異な存在です。まず、稲葉先生は、一九九六年に数理科学研究科に着任される前は、厚生省人口問題研究所にお勤めの役人でした。現在では、国立研究開発法人等に移行しているところがほとんどですが、二十年くらい前は、各省庁の下に研究所があったので、省庁に勤務経験のある大学教員は珍しくありません。しかし、数学の世界では、稲葉先生以外には、そのような経歴を聞いたことがありません。次に、稲葉先生のご専門は、数理人口学、数理疫学、構造化個体群ダイナミクスです。コロナ禍の現在にあっては、むしろ、人類にとって重要な研究と思われるこれらのテーマについて、稲葉先生は一九八〇年代初めから研究を開始されて、その後も第一人者であり続けています。応用数学の研究対象(すなわち方程式)としての人口数理モデルや生物数理モデルは、当時も多くの人が研究しておりました。しかし、方程式というよりは社会問題そのものが研究対象である、という立場で研究なさっていた人は、ほとんどいなかったのではないかと思います。数理人口学や数理疫学は、現在、世界的に研究が活発な分野ですが、日本でこれらの研究に従事している人は、直接、間接に稲葉先生の薫陶を受けていると言っても過言ではありません。
 私自身は、二〇〇七年に数理科学研究科に着任した際に、研究室が隣になったこともあり、挨拶に伺って以来親しくさせていただいております。数理科学研究科内では、応用数学関係者は少数派なので、必然的に膝を突き合わせざるを得ないという事情もあります。研究科の内部事情を教えてくれるのは、いつも稲葉先生でした。実は、十五年前の対面は、私にとっては特別に意味のあるものでした。修士課程在学中の一九九五年当時、私は、他のほとんど全ての院生と同様に、進路について悩んでいました。 数学の研究を続けたいという気持ちはありましたが、社会との関わりがなくなってしまうのではないかという不安もありました。そんな時、数学科の資料室で何の考えもなく、雑誌をめくっていたところ、厚生省人口問題研究所なるところが存在し、そこに所属する稲葉寿という人物がHIV/AIDS感染の侵襲に関して数理モデルを使った研究結果を発表していることを知りました。当時、薬害エイズ問題は大きな社会問題として注目されていました。数学の研究を通じて社会に寄与することができ、かつ、それを実践している人がいるということを知り、たいへん勇気づけられたことをよく覚えています。その後、稲葉先生が、数理科学研究科に異動されたことは存じておりましたが、研究室が隣になり、交流を持てる機会を得たことには、奇妙な縁を感じました。
 ここ二、三年は、直接、雑談ができなかったにも関わらず、送る言葉を書かなければならないことは、大変残念です。しかし、近いうちにまた、お話を伺える機会が持てることを楽しみにしています。稲葉先生には、今後のご健康と、ますますのご活躍をお祈りしております。

(数理科学研究科)

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