HOME総合情報概要・基本データ刊行物教養学部報643号(2023年2月 1日)

教養学部報

第643号 外部公開

<駒場をあとに> 惑星地球科学と社会

小河正基

image643-06-1.jpg 平成五年にこちらに赴任して以来、三十年が過ぎてしまいました。地球や月・火星のような岩石でできた惑星の内部の数十億年スケールで起きるダイナミクスという「浮き世離れした」テーマで一人静かに研究してきたつもりでした。しかし気がついてみると、私の専門分野も含めて惑星地球科学という分野は、この期間、社会との関係に翻弄されてきました。研究者としての情報発信のあり方や駒場でも重要視されている科学インタープリターの重要性を改めて認識させられた三十年間でした。  まずこの間、日本は本当に数多くの様々なタイプの地震に見舞われました。現代の地震学は、地震が起こればそれがどのようにして起こったのかを解説することはできますが、予知をすることはできません。このため、しばしば地震学は社会に何も貢献できないではないかという評価を受けます。実際、東日本大震災のあと頻繁に用いられた「想定外」という言葉はあまり良い意味では使われていませんでした。しかし、当時の地震学の基礎研究の過程で、長期的に見るとこの地域で従来想定されていた以上の巨大地震が起こる可能性のあることを示唆するデータがいくつか明らかにされていました。前期課程の授業においてこれらの研究を紹介する中で、なぜもう一歩踏み込んでこれらのデータを有効活用することができなかったのかと思いました。同時に、一歩踏み込んで、大きな震災の可能性について警告していたら、その情報は社会からどのように迎えられていただろうかとも危惧します。昨今SNSを通して、大した根拠もなく「地震予知情報」を発信する社会的に尊敬されるような立場の人も見受けられ、そのため防災の現場の人が疲労困憊しているという話を聞きます。他方で座談会形式の報道番組において、誠実に研究に取り組む地震学者の話が、例えそれがあまり将来に希望を持たせるようなものでなくとも出席者に染み込んでいく様子を見た事もあります。地震予知云々などというスタンドプレーではない、研究者としての良心に基づく品質保障された情報発信の重要性と、どうしたらその情報を社会に役立てることができるのかという問題の深刻さを痛感させられました。
 もう一つ、惑星地球科学の分野でこの三十年ほどの間に顕著になった問題は地球温暖化です。私たちの世代が学生だった一九八〇年代は、まだ気温上昇が人為的なものか自然界のゆらぎの範囲内なのかを判断する決め手はありませんでした。(当時、「地球温暖化の本質は回転流体の流体力学にある」と喝破された方もいらっしゃいました。)しかし、一九九〇年代以降の気温上昇やその他の観測データと気候モデリングにより、今では地球温暖化の主要因は人為的な二酸化炭素の排出であると結論されています。ところが、相手は気候システムという複雑系であり、観測される温暖化は100%全て人為的なものであるとも言い切れません。この点を突いて、温暖化人為説懐疑論が展開され、「不都合な真実」の問題は国を分断するほど深刻になっていることは、マスコミなどでしばしば取り上げられる通りです。理系の人間の感覚からすると、不明な点があるならさらに確実なデータを出せば良いではないかということになるのですが、どうも問題はそれほど単純ではなさそうです。ある元懐疑派の方のエッセーが今でも印象に残っています。この方は、もともと宗教的な理由から人為説を信じていなかったのですが、あるとき自然公園で休暇を過ごし、自分が自然と一体なのだという共感を持った時、初めて人為説を受け入れられるようになったとエッセーの中で書かれています。この話には私の理解を超えるものがありますが、科学的にほぼ確実であると示された結論を社会に受け入れてもらうには、それなりの方法論を考えなければならないことを示しているのだと思います。
 私の専門分野である岩石惑星のダイナミクスでは、長い間これほどまでの社会との軋轢を経験することなく、静かに研究をすることができました。ところがここへ来て突然、月・火星探査をはじめとする宇宙開発が国際的に大きな話題となってきました。従来の、月や火星の特定の場所に人工衛星を着陸させてその周囲を調査するという探査方法ですと、その惑星の歴史や現在の姿の全貌を解明する上で、どうしても限界があります。基地を建設し、そこから探査車を自由に走らせて面的にその惑星を調査することは、これからの惑星科学にとって大変魅力的な研究手法ですし、昨今の宇宙開発は願っても無いチャンスです。しかし他方、この宇宙開発は熾烈な国際競争の中で進められているものであり、その中に科学者が入っていって研究を行うのはただ事ではありません。駒場を去るにあたり、若い研究者が社会の奔流に押し流されることなく、科学に真摯に向き合うことを願うばかりです。長い間どうもありがとうございました。

(広域システム科学/宇宙地球)

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